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TIBS2013 Bartenderインタビュー・4 毛利 隆雄氏

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  Tokyoインターナショナル・バーショー +ウイスキーライヴ2013(TIBS2013)のゲストバーテンダーインタビュー、最終回をお送りする。今回は「ジャパニーズ・レジェンド」毛利隆雄氏へお伺いした。 ――日本バーテンダー界ではまさに「伝説」として、知らない人はいないほどの知名度をお持ちの毛利さんですが、TIBSにご登場されるとは想像されなかった方も多いかと思います。ご参加を決定された経緯をお聞かせ下さい。 毛利氏 NBA(日本バーテンダー協会)の岸会長、酒向さんからお誘いいただきました。昨年は参加できなかったものですから、今回は是非と。 ――日本でのバーショーは第2回目となり、会場規模やステージプログラムもパワーアップしています。毛利さんがご来場者様だとしたら、何に注目されるでしょうか? 毛利氏 やはり前回を見ていないので正直なところはよく分かりませんが、こうしてチラシを見ていますととても面白そうですね。 ――ステージでは何をおつくりになるのでしょうか? 毛利氏 ハバナ・マティーニですね。 (WMJ注: ハバナ・マティーニはラムをベースにした毛利氏のオリジナルカクテル。バーではチョコレートを添えて提供していただいた) ――同じくレジェンドとして海外からピーター・ドレリ氏が来日されます。ドレリ氏はご存知でしたか? 毛利氏 いえ、知りませんでした。同じサヴォイ・ホテルのエリック氏は良く知っていますけど。お会いするのが楽しみですね。サヴォイ・ホテルは一流ですから、素晴らしい方がいらっしゃるんだと思います。 ――ライジングスターとして同じく銀座の耳塚史泰さんも登場されます。耳塚さんのことは早くからご存知だったかと思いますが、昨年の世界大会でアフターディナーカクテル部門で優勝されるなどのご活躍ぶりについて、どのようにお感じになりますか? 毛利氏 やはり、現在のバーテンダーは、勉強熱心で頑張り屋が多いですね。その代表である耳塚君は、絶対に勝てると思っていました。 ――現在も3店舗で活躍されていますが、お店に立つのと同様に、若手の育成にもお力を注いでいらっしゃると思います。新人バーテンダーの方にまず最初に教えられることは何でしょうか? 毛利氏 小さいことは言わなくてもわかると思うので、まず、技術と味について教えます。味については、スタンダードカクテルを「私の味」で徹底的に教えます。 ――「毛利さんの味」を教えていただけるのであれば、若い方も必死で学ばれるでしょうね。 とくに 毛利さんといえば、マティーニを連想される方が多いかと思います。一言で言い表すことは難しいかと思いますが、マティーニにこだわりを持つことになったきっかけや、マティーニをつくる際に守り続けている信念などがございましたらお聞かせ下さい。 毛利氏 カクテルの王様ですし、やはり飲む方が非常に多い。私はミスター・マティーニといわれた今井清先生の後輩でもありますので、今井先生のものではない、「自分のマティーニ」が作りたかった。私の思う「自分のマティーニ」とは、「おかわりが来るマティーニ」。納得がいくまで、材料選びからやりました。 ――そして今、そのご自身のマティーニが「毛利マティーニ」として、世界中からこの一杯のために訪れてくる人が後を絶たない唯一無二のマティーニとして確立されたわけですね。 では最後に、 TIBSへ来場される方、またまだチケットのご購入をためらわれている方へ、毛利さんからメッセージをお願い致します。 毛利氏 お酒がお好きな方は是非ご来場されて、新しい発見をしていただきたいと思います。 ――ありがとうございました。 これまでのTIBSに関する記事はこちら Tokyoインターナショナル・バーショー2012レポート 日本最大のお酒のイベント「TIBS2013」前売券発売開始 TIBS2013 Bartenderインタビュー・1 耳塚史泰氏 TIBS2013 Bartenderインタビュー・2 ジム・ミーハン氏 TIBS2013 Bartenderインタビュー・3 ピーター・ドレリ氏

絵画とウイスキーの共通点

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スコットランドで今最も話題の画家と対談し、彼のモルトウイスキーとの関連を訊く Report:アマンダ・ブロック 読者の方々も子供の頃、いつか有名になって使う日を夢見て、一生懸命自分のサインを練習したことがなかっただろうか。 ジョン・ローリー・モリソンもそうした練習をして、自分の3つの名前からそれぞれ最初の2文字を取ったjolomoというペンネームを作り出した。今では、このペンネームでスコットランドのハイランド地方の風景画を描き、その過程で同国の最も愛されている芸術家のひとりになっている。 Jolomo(モリソン)はスコットランドのハイランド地方を鮮やかな色彩でドラマチックな絵画に仕立て、スコットランドの西海岸を描くことで有名になった。学生時代に才覚を現し、グラスゴー芸術学校に入学し、60年代に教鞭を取った。彼は妻のモーリーンと若い家族(3人の息子)および彼の兄と一緒にアーガイルに移った。ここは彼が子供の頃休日を過ごした場所で、過去38年にわたり彼らの居住地となった。 モリソンは、スコットランドの西海岸での休日について楽しそうに語る。田舎で休日を過ごすことが若いモリソンに一種の自由を感じさせた。彼はタイナブルーイックの港でウェイバリー行きや他のボートが発着するのを見ながら何時間も楽しく過ごした様子を話してくれる。国内で休日を過ごす幸せなスコットランド人でいっぱいだった。 今では彼の従兄が住んでいるハリス島にモリソン家は菜園を持っていて、モリソンもそこに滞在することがある。ハリス、マルや他の島への旅行を経験した後モリソンは初めてアイオナ島に出かけた。アイオナはモリソンの多くの絵画の題材となっており、非常に宗教的なこの島は、少なくとも、しばらくの間はモリソンの作品とほぼ同義語となっていた。 アイランズモルトで知られるこれらの島々で多くの時間を過ごしたモリソンが筆者に「ウイスキーとウイスキーづくりに関わることはすべて好きだ」と語るのはあまり驚くにはあたらない。 「スカイ島ポートナロングに住む私の従兄マード・マックロードが以前カーボストの蒸溜所で働いていたので、私は何回もそこに行ったことがある。私はマードの生き方が好きだった。彼は菜園を持ち、ハリスツイードを織り、地元のトラック運転手で、かつタリスカーで働いていた」 モリソンは絵画で生計を立てられるのはすばらしいと言う。彼はストラスクライド地方での芸術アドバイザーが最後となった輝かしい教職時代に続き、過去14年間フルタイムで絵を描いている。「ウイスキーづくりと私の仕事には共通点があると思う」 「ウイスキーは長いプロセスを経てゆっくりつくられる。私は絵具の層を積み上げて絵を描いていくが、これはまず風景の下絵を描き、写真を撮って、ゆっくり構想を練っていくことから始める。これは長いプロセスで、そのプロセスは私が8才の頃から継続している。現在までが全部つながっているので、いわばより大きい構図になっている」 彼は自分が描く風景のなかにどのように人の存在を感じ取らせるのかを説明する。菜園に梯子が立てかけられたのを見ることもあるだろう。菜園の存在自体がもちろん我々人間の存在を表している。 モリソンがよく描くので知られているのは菜園だけではなく、風景の中に見られる他の建物や灯台、教会、また蒸溜所だ。 モリソンのカタログを見た、あるいはJolomo ランドスケープ・ペインティング・アワードを知っている人は彼がバルブレア蒸溜所と関係があるのに気がつくだろう。 「蒸溜所とそこに働く人々は私にとって非常に興味深い」とモリソンは語る。 「バルブレアの所有者が私から彼らの蒸溜所の大きな絵を買ったことがある。訪問した時にエダートンの蒸溜所を見た。すばらしい経験だった」 モリソンは笑みを浮かべて言う。学生時代から現在に至るまで彼は常に、スコットランドの風景の中でもそれほど魅力がない場所を描くのが好きだった、と。そしていくつか具体例を挙げる。 その中で特筆すべき人造建造物は、アレックス・サモンドが自治政府首相として最初につくったクリスマス・カードにも描かれたリンリスゴー宮殿だった。 この絵画は慈善事業用印刷版として非常な成功を収め、2万5千ポンドを売り上げ、最終的に慈善事業のための競売に出され、かなりの高値を獲得した。小さな白い小屋を描いた古典的なモリソンの絵画は非常に人気があるが、彼は新しい絵画スタイルを試すことを恐れていない。彼の絵画技法は拡大と発展を続けている。近年、そのスタイルはより自由で若干抽象的になっている。一定の形をまだ決めていないのだ。 モリソンの絵具パレットは日常的に変えられ、彼のム−ドを反映することもある。「私の絵画は一種の明暗法で、色彩と暗さ、および光と影が人間の精神の寓意となっている」 モリソンのウイスキーに対する好みは従兄のマードにより形成されたようだ。 「私はタリスカーあるいはアイラモルトのようなピートの効いたウイスキーが好きだった」 しかし彼は自分のウイスキーに対するパレットは、絵画の場合と同じように時間をかけて発展してきたことを認めている。 「私が年をとってパレットも変わってきたように、今では軽いウイスキーの方が好きだ。バルブレアの他に、アイランズのスキャパなどのモルトが大好きになった」 良質のウイスキーを味わえるのはモリソンが成功した唯一の恩典ではない。彼は慈善団体に寄付することでよく知られており、毎年様々な慈善事業や競売用に年間40以上の絵画を寄付している。(彼自身の「天使の分け前」だ)。自身の成功に関して「継続的な成功は慈善事業、また自分の慈善団体を通して、あるいはザンビアやマラウイのような他国で人々と協力して、財政面で人々を支援できることでもあった」と語る。 2005年にモリソンはJolomo基金(The Jolomo Foundation)というスコットランドの風景を描くことを推進、奨励する慈善団体を設立した。 この慈善団体を通じて2006年にはJolomoアワードが設立され、その最初の授与が2007年に行われた。賞金総額が3万ポンドに上るこの賞は、英国で最大の民間資金による芸術賞となっている。 最初の賞の成功に続き、Jolomo基金はグラスゴーで2009年2回目の授賞式を行ったが、そのスポンサーの1社がバルブレアだった。 ウイスキーを愛する画家が、ウイスキーにまつわる土地を題材に作品を描き出す。 読者のみなさんにも、グラスを片手に眺めていただきたい。

ブランドアンバサダーは辛いよ【前半/全2回】

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ウイスキー愛飲家からすると、ウイスキー・アンバサダー(大使)は夢の職業に思える。しかしそれは期待通りのものなのだろうか?  Report:ドミニク・ロスクロウ ニューヨーク、まだ宵の口、ディアジオのブランド・アンバサダーであるスパイク・マックルーンはクラシック・モルトについて学ぼうと待ち構え、部屋いっぱいのウイスキー愛好家たちとまさに向き合おうとしている。 スパイクの本業は俳優である。彼を有名にしたのは主にTVドラマへの出演だ。まあ正確には画面に映ったわけではない。番組中に使われている留守番電話の声だったり、エロティックなシーンでの男の喘ぎ声だったりという役どころである。 しかしいまや彼は世界最大の飲料メーカーのウイスキー・アンバサダーとしての役割を自分の天職として見出し、今宵のプレゼンテーションを楽しみにしているのである。 やがてドアが開くと、既に1、2杯聞こし召した男がふらつきながら、スパイクのキルトを認めると、彼にしなだれかかるように、挨拶もそこそこに抱きついてくる。 スパイクは男を部屋の隅の空いている席に誘導する。男は人をかき分け椅子に向かい、座るや否や眠り始める。やれやれ。スパイクはプレゼンテーションを続け、今宵最後のモルト、ラガヴーリンを手にするまで、完璧な進行を続ける。モルトのスモーキー・ベーコンのような性質を示そうと、スパイクは参加者にウイスキーで手のひらを擦ってみるように促す。 「スモーキー・ベーコンの香りがわかりますか?」と問いかけてみる。「ウイスキーには麦と、酵母と、水しか加えていないんですよ。どうしてこうなるんでしょうね?」このとき、隅にいた”奴”がむっくりと起きこう叫ぶ。「なんだこりゃ。死んだ豚をここに放り込んだ奴がいるぞ!」 ウイスキー・アンバサダーのややシュールな世界へようこそ。 伝え聞く限りではこの世で最高の職業だが、実際はそれほど単純ではない。世界を旅して、エキゾチックな場所に泊まり、素晴らしい人々とウイスキーへの愛を分かち合うのが一面なら、遅延とキャンセルが連続するフライト、預けた荷物の紛失、細切れの睡眠、こわれた機内オーディオ、そしていつ果てるとも分らない次のツアーが別の側面である。そしてイベントに現れる風変わりな奇人たち。 「つまりこういうことです。既に商品に対して十分すぎる程の知識をお持ちの方がいらっしゃることがあるのです」と語るのはロニー・コックス。グレンロセスのディレクターであり、かつアンバサダーを30年以上勤めている。「大抵そういう人たちは、他の人達が傾聴しようとしているときにジョークを飛ばしたがるので、うまく対処しなければなりません」 「あるいは、たいへんマニアックな質問をなさる方もいらっしゃいます。たとえばセミ・ラウター式のマッシュタンの中の羽根は1分間に何回転しているのか、といった」 どのアンバサダーに訊ねてみても、決して準備のしようのない悪夢の質問シナリオに出逢う事があると言う筈だ。あるスカンジナビアの愛好家は道具を洗う為の洗剤の正確な製法を聞きたがった。またひとりの人間から次々と難問を繰り出されるという経験をした者もいる(このときは、高度な質問を携帯でインターネットから引き出していたことが判明した)。 グレンモーレンジィのアナベル・マイクルは、南アフリカのラジオ出演中に立ち往生したことがあると話してくれた。 「南アフリカ向けに、用意できることなんてないですけどね」とアナベル。「狂気がかっていて、激しいんですよ。朝のラジオ番組に出演するときに2、3日滞在しただけですけど。誰かがスコットランドの古戦場を旅しているときにもっとも相応しいウイスキーは?と訊ねられたときは、不意打ちのようなものでした。そのときは何か力強いウイスキー、たとえばアードベッグなどを飲むことをご提案したのですが、スタジオ内で困惑の表情が広がるのが見てとれたのです」 グレンファークラスのジョージ・グラントは非常に興奮したベルギー人と向き合った経験を思い出した。その男はときどきは欠席しながらも、ずっとジョージを追いかけてきていたのだという。 「その男が言うには、10年に渡って年に1回グレンファークラスに通っていたそうなんです」とジョージ。「そして実は毎年塀を乗り越えて、仕込み水を持ち去って分析していたということが分りました」 「その男をそれほど興奮させたものは、10年にわたって仕込み水のPHの変動率が0.01% 以内だったということなのです。男はこのことにとても執着していて、これこそが真に重要なことだと考えているようでした。一体どう答えれば良いか分りませんでした」 さて、ここまではアンバサダーになら誰にでも起こりうるであろう、許容の出来る事柄だが、彼らの体験談はこんな物では終わらない。 夢のような職業の悪夢のような物語の続きは後半でお伝えしよう。

ブランドアンバサダーは辛いよ【後半/全2回】

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ウイスキー愛飲家が羨むブランドアンバサダーは、果たして最高の職業なのか? 彼らの奇怪な体験談をほんの少しだけ、ご紹介する。 →ブランドアンバサダーは辛いよ【前半/全2回】 前半でご紹介したように、アンバサダー達は時折、予測も対応も不可能な出来事に見舞われる事がある。もちろん人生には遥かに悲惨なことがあることは誰も否定しないし、多くのアンバサダーは自らの幸運に感謝していることだろう。しかしまた多くの者たちは飛行機の遅延や乗り遅れ、そして預けた荷物の紛失などに恐ろしい経験を重ねている。実際長時間の労働はたとえ「魅力的」なツアーであっても、結局タクシーや空港やバーでの時間や、スタイリッシュだが居心地の悪いホテルでの浅い眠りなどへと矮小化させて行く。優雅な人生を夢見ながら、酷い現実に目覚めるという次第。 「最初の数年は、ただタクシー、ホテル、レストランそして空港を巡っているだけでした」と語るのは、ハイランド パークのアンバサダーであるジェリー・トッシュだ。「誰でも、すぐに想像していたような、夢の職業ではないことに気が付くでしょう。最初のころ、パリに行ったときに、上司と一緒に列車を降りたら、ちょうどフランス労働者たちのデモのど真ん中だったことがあるのです。私たちが登場すると警官はそれを見とがめ、催涙ガスを撃ち始めました。非常線を迂回する為に6マイルも余分に移動しなければなりませんでしたね」 「その後の旅のひとつでは、ゴーテンブルグからストックホルムへ移動する列車が、ヘラジカを轢いてしまいその後始末のために3時間程足止めを食らったことがありました。それが、この仕事を続ける限りなにも予想することはできないと思い始めたきっかけでした。そして、それは正しいままです」 身の危険という意味での嬉しくない経験も含まれている。ジェリー・トッシュはマイアミのホテルからわずか1ブロック離れた場所で若いチンピラ集団に追いかけられたことがある。ロニー・コックスは銃を突きつけられたことが2度ある。 「国も人も大好きなところですが、コロンビアでは、ある麻薬王がウイスキーを4万ケース欲しいと言ってきたことがありますね」とロニーは思い出す。 「その男にあった瞬間から、どのようにこの場を逃れるかが大切だと思いました。男はまずウイスキーを寄越せ、そうしたら支払うからと言いました。その場を逃れるために、私は英国の上司とまず相談しなければならないと言い、そして残念ながら今は出張中なのでテレックスを送ることができないと説明しました。ここを出てなるべく早く連絡するからと、その場を去ったわけです」 スコッチウイスキーの旗を持ち歩くことは、ときに法的な混乱と衝突を招くことがある。しかもまったく馬鹿げた理由で。 台北の飛行場でジョージ・グラントは持っていたピートを見咎められた。係員はそれが大麻だと思ったのである。 「ピートとはなにか、また、なぜこれをバゲージに詰め込んでいるのかを、うまく説明しようとしてみてくださいよ」とジョージ。 「まあ、もっと注意深くあるべきでした。以前にも白い粉の入った透明な袋を見咎められたことがあったのですからね。『グリスト』(穀物の粉)という言葉をうまく翻訳するのは難しかったですよ」 しかし、こうした全ての問題や不規則なタイムゾーンの移動などに苦しんだとしても、充分に素晴らしく想像を越えた経験が苦しみを補って余りあるものにしてしまうのだ。アナベル・マイクルはサンクトペテルブルグに夜中に到着したときに出逢った魔法を思い出した。 「夜中の1時くらいに着いたのですが、あたりは暗くなくて明かりが残っていました。そんな時間にも関わらず人で混雑していて、飛行機に荷物を運び込むブリッジを皆で見つめているのです。凄かったですよ。そしてひとりの女性がネオンピンクの胴と尻尾をもった白馬にまたがって現れたのです。信じられないできごとでした」 しかし仕事は次々と変化球を投げつけてくる。優れたアンバサダーはそれらとバットで戯れる術を学ぶのである。 数年前、デイヴ・ブルームが彼のコラム中に書いていたことだが、あるドイツ人愛好家によってフィニッシュがどれくらい続くのか秒の単位まで訊ねられたことがあるそうだ。彼が正確な数字は挙げられないというと、その愛好家はウイスキーライターがそのような基本的な情報も知らないということに心底驚いたそうだ。 その数週間後に、私はホワイト&マッカイのリチャード・パターソンと一緒にトークショーを行った。ドイツ人が質問してきたとき(同一人物であったかどうかは不明である)、私はどう対処してよいかわからなかった。「ミスター・パターソン。ロング・フィニッシュとは何秒続くのですか?」と、彼は質問したのだ。 パターソンは一呼吸もおかずに答えた。「慣習的にはロング・フィニッシュは7秒ですが、8秒が良いと考える人もいますね」とパターソン。「4から7秒がミディアム・フィニッシュで、それ以下はショート・フィニッシュということになります」 ドイツ人が礼を述べると、パターソンは私の方を向いてウィンクした。ああウイスキーの世界はなんて奇妙で素晴らしいのだろう。

SWAが示す姿勢【前半/全2回】

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スコッチ ウイスキー アソシエーション(SWA)は、ウイスキー業界の中で、最も影響力のある団体のひとつである。では、実際には何をしているところなのだろうか? Report:ドミニク・ロスクロウ 「ベネズエラは有力な市場ですが、実際には今のところ市場にはなり得ません。2013年に逝去したウーゴ・チャベス(元ベネズエラ大統領)は、スコッチウイスキーの市場参入に反対しており、我々はその強硬な態度を変えようと試みましたが、ベネズエラは数多くの取引国のひとつにすぎないので、現実を見据えて優先順位をつけなければならないのです」 エディンバラのヘイマーケット地区に建つ美しいジョージ王朝風の一軒家で、南米の社会主義国の大統領といかに戦うかについての話し合いがもたれているとは、誰も想像だにしないだろう。さらに言うと、壁に数々の中国政府の社会主義のシンボルが飾られているとも思わないだろう。しかし、アソル クレッセント20番地にあるSWAの本部は、見かけとは異なっている。外観は穏やかで落ち着いているかもしれないが、内部は、静粛だが熱心な国際活動の原動力となっている。 アソル クレッセントでは大規模工事が行われていたのだが、普段は数々の教会の尖塔、戦争記念碑、スタイリッシュなピリオドハウス(欧風伝統建築様式の家)の並ぶ静かで緑の多い郊外の一角だ。しかし、新しいトラム(路面電車)システムが導入されるために、中心地の道路は引き剥がされ、いかなる常態の外観も、空気ドリルと重機械によって粉々に砕かれている。建設工事の騒音が絶えず邪魔をするので、SWAを訪ねるのも大変だった。 しかしそこで働く人々は、冷静沈着な決断によって、無数の世界情勢問題を扱うことと全く同様に、その工事によって被る不便さに対処している。彼らを混乱させるものなど何もないと感じるだろう。 それなら、なぜ我々はここに? 正直に言うと、SWAに人目を引くようなものなど何もない。もしSWAでしばし時を過ごすつもりだと3人に話したら、それぞれ3人が『幸運を祈る』と言うだろう。なぜか? おそらくその答えは、SWAが、ウイスキーの世界には輝かしい結末など望み薄だとはっきり述べているところにある。もしウイスキー業界が胸躍るような商品の詰まっている鈍く光る酒場だとしたら、ここは、冷たくていささか不毛な、コンクリートや配管が全てむき出しの貯蔵庫のようなものだ。それは、次々と湧き出てくる問題を抱えるウイスキー商品を保管することによって、難題を次々と解決している場所なのだ。そして、もしSWAがなかったとしたら、現在の品揃えよりはるかに劣った風味のスコッチが世の中に溢れ、私たちにはほんの僅かな選択肢しか残らなくなるだろう。 アルコール産業は、厳しい監視下に置かれ、重圧がかかっている。 SWAに対して世間は、英国の予算編成時期、また業界の政治的な会議の時期に、度重なるウイスキーの増税に対し、次々と非難を繰り出す組織として、また、漠然とスコットランド語のように聞こえる名のついた、ある粗末で不適切な海外の蒸溜所を、時折激しく非難する組織だと認識している。協会の『不名誉な壁』―スコットランドの名を冠し、スコットランドのイメージを抱かせる、世界中の様々な国の悪徳業者によって販売されている模造品のウイスキーのコレクション―には、時としてジャーナリストは興味を示す。だが、大体の場合、SWAは世間の注目を浴びることはない。 しかし、今はSWAにとって辛く試練の時期で、数々の課題に直面している。アルコール産業は、概して厳しい監視下に置かれ、自己監視や酷評に直面し、すべての関連団体の上に圧力が重くのしかかっている。その重圧とは、世界中に広がるスコッチに対する需要や、今なお継続している景気後退が模造品を生み出す可能性を増大させること、新興の利益の上がる可能性のあるマーケットが、まだスコッチどころかウイスキーとは何かさえ定義できていないこと。そして、環境問題に対し、意欲的で積極的な業界の反応が求められていることなどだ。 この様なことすべてが、アソル クレッセントで日々繰り広げられている。 20番地は、実際にはかつて2軒だった屋敷を1軒にしたものだ。受付の空間とミーティングルームはきちんと無駄なく機能的だが、建物の中心部に向かうにつれ、だんだんと危うくなっていく。無秩序で年季の入った事務室、世界地図が張られた壁、書類が散在しているデスクなど、雑然としたところだと感じるだろう。全スタッフ32名がそこで働く。事務所内を大まかに見回ってみると、彼らが引き受けている仕事の膨大さがわかるだろう。たとえば現在のところ、SWAは、世界中の70の異なる法的措置に携わっている。また、異なる150以上のマーケットで600を越える貿易障壁に直面している。 比較的資本移転が簡単にできる時代においても、物質的な品物の移動は全くもって難しい。それでも、ベネズエラでウイスキーを売りたいのか? 何の問題もない。いったん、関税、物品税、輸入課徴金、アルコール飲料消費税、付加価値税の問題をクリアすれば、大丈夫。文章だけを読むことが退屈だと思うのなら、毎日、毎週、毎年、ひとつだけでなくいくつものマーケットにおいて、そのような問題に取り組むということを想像してみるといい。 SWAの世界へようこそ。それは、皿洗いの仕事のように単調だが、誰かがやらなければならないことだ。 スコットランドとの関連をほのめかす三流の蒸溜所をいじめる業界の敵役としてしばしば中傷されるが、SWAは実際にはスコッチウイスキーの保護とサポートという重要な役割を果たしている。   後半に続く

SWAが示す姿勢【後半/全2回】

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ウイスキーに熱心な方であれば、必ずどこかで聞いた事があるであろうSWAという名称。ではSWAとはどんな団体で、何をしているのか。その実態をお伝えする。 →SWAが示す姿勢【前半/全2回】 SWAの務めは、複雑で困難なものであり、政府や貿易団体と並んで世界をまたにかけ、時にはウイスキーにとっての未開の地においても、忍耐強く仕事をしている。その仕事とは、それぞれの地域で『ウイスキー』という言葉の意味を定義すること。その地域においてスコッチウイスキーを定義する独特の品質を正しく認識するようにすること。そして、そのマーケット内でスコッチウイスキーが同じ土俵で競うことができる公正なチャンスを得ることを保証することである。 現代においてSWAは、新しい辺境の地に赴き、将来貿易がスムーズに確実に行われるようにするために道路や鉄道システムを敷いた開拓者たちに相当する。その主要な武器は忍耐で、風雨に耐え、自然の力に吹き飛ばされる危険に晒されている樫の木というよりも、経済や政治の強風でしなる葦のようだ。 「私たちが行っていることの多くは、長期戦だ」と、政府・消費者問題担当役員のキャンベル・エバンスがいう。「現在、スコッチウイスキーに関して、世界で最も大きな市場のひとつであるスペインのようなマーケットを見てください。実は、20年前スペインがEU加盟を熱望した際、大仕事に取り組みました。その時スペインで我々が成し遂げたことは、今日エストニアなど新興国のマーケットで行っていることと同等のことと言えるでしょう。すべて長期戦になるからです」 こんなに多くの国々を取り扱うことは、ビリヤードの玉を箱に入れることと少し似ている。片方の端の箱に余分な玉を押し込むと、もう片方の箱から飛び出る。いくつかの国は、他よりもさらに厄介で、時々予期せぬ方角から問題が起こったりする。 「目下のところ、オーストラリアに問題があります」とエバンスが言う。「オーストリアデイスティラーズ アソシエーション(オーストラリア蒸溜所協会)は、高水準を保っていますが、オーストラリア政府がウイスキーとは何かという定義を廃止したため、あたかもスコットランド製のようにデザインし製造された粗悪な製品が大量に出回っています。このことに歯止めをかけることが重要なのです。なぜなら、ウイスキーをあまり良く知らない誰かにとって“これがスコッチウイスキーだ”という初めての体験が、実は工業的に風味付けされたものだという可能性が高くなり、それにより人によっては一生ウイスキーに手を伸ばさなくなるかもしれないからです」 「我々は、SWAの主張を受け入れる姿勢を歓迎します。例えば米国は、スコッチウイスキーとはすなわちSWAがスコッチウイスキーと認めるものだ、という態度を取ってくれています。中国でも大きな支持を得ました。大々的に偽造品の廃棄が行われるのです。偽造品が集められ、地方高官が見守る中で蒸気ローラーによって廃棄されるのです」 一難去ってまた一難。連続して他の違反者が現れる。例えば、世界で最も大きなマーケットであるインドの挑戦は、とてもよく実情を伝えている。 「まるで28ヵ所の異なるマーケットを扱っているようです。なぜなら、州ごとに地方税と規制があるからです」と国際問題担当役員のピーター・ウィルキンソンが述べる。「私たちはこの2、3年の間、大きな進歩を遂げてきました。しかし、さらにやらなければならないことがあるのです。引き続き任務に取り組み、それには多くの時間がかかります。地方のイベントが一役買っており、近々の選挙結果が助けとなることを願っています」 SWAは、外交の最前線に取り組む一方で、国内問題にも注意を向けている。例えば環境問題にどのように応じていくか、その姿勢を公開している。近年投じた数億ポンドにのぼる投資に関しては、業界をあげて二酸化炭素削減の実現を確かなものにするプランを策定した。また最近は、ウイスキー以外の製品をギフトショップで販売できなくなるかもしれないという窮地から蒸溜所を救った。アルコールが厳しい監視下に置かれる最中、また政権交代の可能性が示唆される中、慌ただしい政治論争の時期が迫りつつある。 「我々がこのような会議を行うことは重要なのです。なぜなら、何年にもわたって、政治家たちを理解するように努め、政治家たちもまた我々を知ろうとしてきたからです」エバンスが言う。「政治家が英国の利害を左右する以上、確実に彼らの優先順位リストのトップまたはトップに近づくようにするため、できうる限りのことすべてを行わなければなりません」 そう言って、エバンスは建物の中心部へと消えていった。 昼食後、広報担当マネージャーのデービット・ウィリアムソンが、私をスコットランドホームカミングの祝典の一環である展覧会へと連れて行ってくれた。ウイスキーづくりに関する最古の文献である1494年の財務目録や、ロビー(ロバート)・バーンズが収税吏として賃金を受け取る際にサインした小切手のオリジナルが展示されている。バーンズの死の1週間前に記した最後のサインは、彼の健康状態を映し出すようにほとんど走り書きで判読しづらく、さすがに胸が詰まった。 「これをあなたに見せたかったのです。なぜなら、スコッチウイスキーの最大の文化的遺産だからです」ウィリアムソンは続けて言った。「ウイスキーの歴史と起源の重要な部分なのです」 SWAにも同じことが言えるかもしれない。我々の愛する飲み物の未来は、最も安全な手の中にある。

Red Top × Green Bottle 【前半・全2回】

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メーカーズマークのマスターディスティラー グレッグ・デイビス氏が初来日、サントリー白州蒸溜所を訪れた。 シングルモルトウイスキー「白州」とメーカーズマークのテイスティングと対談が行われたが、前半となる今回はメーカーズマークについてご紹介しよう。 アメリカで最も若いマスターディスティラーとして知られるグレッグ氏。この日は白州蒸溜所工場長の前村久氏と白州蒸溜所内を見学し、蒸溜所内の「Bar白州」にてテイスティングを行った。 まずグレッグ氏は、メーカーズマークの「特別に丁寧なつくり方」を説明してくれた。 第一の特長は、穀物を全て混ぜて仕込むという点。マッシュビルの比率はコーン70%、冬小麦16%、麦芽14%。これをサミュエル家の独自のイーストを使って仕込み、ダブラーと呼ばれる連続式蒸溜機で蒸溜する。初溜はアルコール度数60%の時点で「一番美味しい」ところを取り出す。再溜では香りを活かすため、65%で仕上げるとのこと。 そして樽について。同社では、ホワイトオークを伐採して樽材用にラフカットして「熟成」させるという。9ヶ月以上屋外の自然な環境にさらしてから製材し樽組をする。なぜこのような手間をかけるかというと、ひと夏を越すことで木の中の成分が落ち着き、反比例してバニラ香がピークを迎える。この過程が重要なのだそうだ。 樽組したあと、同様に重要な工程となるのがNo.3チャー。バーボンでは樽の内部を焦がすチャーのレベルを4段階に分けており、同社ではNo.3(第3段階)と定めている。どの程度の焦がし具合かというと、樽の内側がワニの腹部(アリゲーター・ベリー)のように割れている状態。No.2では表面が黒焦げになる程度、No.4では炭化した木片が剥がれ落ちるレベルだ。現在ほとんどのバーボン蒸溜所ではNo.3チャーを採用しており、他社ではこの工程に90~100秒かかる。しかしメーカーズマークではこの段階でも樽材を熟成させたことが活きてくる。およそ半分ほどの時間、40~45秒で済むのだ。これは木が熟成期間中に十分乾燥するためで、この効率の良いチャーによって樽材に含まれる成分が理想的な状態となるというのだから、こだわり抜いているというほかない。 樽詰めの際にはアルコール度数を65%から55%に落とす。あまり度数が高すぎると樽の成分がスピリッツに移りすぎてしまうため、適度に影響を受ける度数で樽詰めをしている。 さらに特筆すべきは、その樽管理にある。 7段のラックに収められた樽は、3年で位置を変更する。熟成庫上部は高温で水分の蒸発が早く、アルコール度数が高まりやすい。低部では温度も低く湿度が高いため熟成はゆっくりと進む。日中の寒暖差も激しく、夏には上部は40~45度、下部は20~25度になるという。 そこで3年後に、7段目にあった樽は最下段へ、6段目の樽は2段目に移る。それぞれの位置により味わいも異なるだろうから、最終的にミングル(バーボンの樽同士のブレンドをこう呼ぶ)でバランスを取るのだろう。その移動のあと、さらに3、4年熟成を重ねる。こうしてメーカーズマークはつくられているのだ。 テイスティングではまず熟成前のスピリッツの状態である「ホワイトドッグ」が登場。 バターのような香り。そして後からフルーティさがやってくる。これは穀物を全て一緒に仕込むところからこの特長が出るとのこと(前村氏によると、通常日本で穀物を全て一緒に仕込んでしまうと、どうしても刺々しさが出てしまうそうだ)。そして味のほうは、ニューメイクと思えないような舌の先端に感じられる甘み、シリアルのような香ばしさ。非常にスムースだ。ポットスチルでは複雑な香味を膨らませつつ良いところを抜き出すというイメージだが、連続式蒸溜機では「不要なものを削ぎ落とす」という印象だ。そのためクリーンでありながらもまろやかな味わいになるのだろう。 次に1年熟成モノ。 バニラと木の香り。まだアルコールが強く、ツンとする。味はカラメルの甘さが少しずつ広がりつつも穀物感のほうが大きい。思った以上に若さは感じられないが、やはりフィニッシュの抜けが早い印象。 そしてメーカーズマークのスタンダード品、レッドトップ。 はっきりとしたバニラ。スピリッツから続くフルーティな香り。舌に乗せると非常に優しく、まるい。この柔らかさは冬小麦独特のもので、ライの比率の高いバーボンとは一線を画している。クリーミーさを備えた甘やかな味わいで、見事にバーボンの「メロウ」を表現しており、大切に育てられたウイスキーであることが伝わってくる。 最後にオーバーマチュアリング(過熟成)のサンプル。 こちらは香りにはやや複雑さが増しているが、口に含むとウッドがかなり強く、フィニッシュには強いタンニンの渋味。こうなってしまわないためにも、同社では熟成のピークを見極めて樽の管理を行っているのだ。グレッグ氏は「ちゃんと一つ前のメーカーズマークに戻って、口直しして下さいよ!」と釘をさすのを忘れない。 テイスティング終了後、グレッグ氏に初めて白州蒸溜所を訪れた印象を尋ねると「家に帰ってきたみたいですね!緑を大切にしているのは私たちも同じですし、蒸溜所内で働いている方々のプロフェッショナルな姿勢はメーカーズマークと通じるものがあります」とにこやかに語る。また、アメリカでは木の発酵槽を使っている蒸溜所が少なくなりつつあり、あれほど多くの木の発酵槽を使用しているのを見て非常に驚いたそうだ。 そして同社の方針としては、商品の幅を増やすことよりも、本当につくりたいものを軸のぶれないように提供していくことを最優先にしている、と話してくれた。 細部にわたってこだわりのつくり方を守っているメーカーズマーク。その名の通り、「つくり手の誇り」は世界中で愛され、信頼され続けている。この白州の地においても、その赤い封蝋のボトルは1780年創業という歴史の重みとともに、つややかな光を放っていた。 後半に続く  

Red Top × Green Bottle 【後半・全2回】

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メーカーズマークのマスターディスティラー グレッグ・デイビス氏が初来日、サントリー白州蒸溜所を訪れた。 後半の今回はシングルモルトウイスキー白州にスポットを当てる。 ←Red Top × Green Bottle 【前半・全2回】 メーカーズマークに続いて、白州のアイテム5種の試飲に移る。 この日の蒸溜所見学では、白州蒸溜所工場長・前村久氏による丁寧な工程の説明を受けた。そこで強く感じたのは白州蒸溜所の徹底した“クリーンさの追求”である。 マッシュの段階ですでにその違いは明確だ。清澄麦汁へのこだわりである。仕込みの段階で、濁りのないクリアな麦汁へと“磨き上げる”。そのためオイリーさやナッティさの少ないエステル香豊かな原酒に仕上げられるのだ。 柔らかな南アルプスの水と白州の森由来の乳酸菌のマジックが、同様に清澄麦汁にこだわっている「山崎」ともまた一味違う個性をもたらす。そして形状の違う直火蒸溜のポットスチルを経て白州独特の多種多様なモルト原酒が生まれ、澄んだ冷涼な森の空気の中で眠る(樽詰めのアルコール度数は、60%程度が樽材とバランスが良いらしい)。ここに白州の軽快かつ複雑な味と香りの秘密が詰まっているようだ。 テイスティングに際し、前村氏は「私はブレンダーではありませんので、つくり手として、いかに多彩な原酒をブレンダーに提供するかが私の使命だと思っています。繊細で、クリーンなウイスキー。それが基本です。そこから樽やピートによってバリエーションを広げています」と前置きする。つくり手とブレンダーの固い信頼関係、匠同士の絶妙なキャッチボールで行われる緻密なウイスキーづくりを垣間見た気がした。 最初はベースとなる12年熟成のホッグスヘッド樽原酒から。 バニラ香、フルーティさ。アフターテイストが長すぎず、切れの良い仕上がり。瑞々しい青リンゴ、セージの葉がほのかに感じられる。清涼感たっぷり。グレッグ氏も素晴らしいバランスのフィニッシュが気に入ったようだ。 次に白州の個性をつくり出す、ヘビリーピーテッドタイプ。スコットランドのピートを使用しているが、白州で熟成させることで独特の柔らかさが生じる。ピートの奥にバニラ。深いが、澄んでいるので底まで見通せる湖のよう。ふわりと漂う煙が心地よい。 続いてのシェリー樽原酒は、山崎のシェリー樽原酒に比べてスッキリとした仕上がりになっており、穏やかなアフターテイストが特長である。グレッグ氏は「こんなバランスの良いシェリーは味わったことがない。甘みと華やかさのバランスが見事。スピリッツがしっかりしているためですね」と感想を述べた。 そして「白州12年」のテイスティング。ホッグスヘッドのベースが活きている。バニラビーンズやミント、オーク、かすかにクローブ、レモンスカッシュの爽快さが感じられる。スコッチウイスキーにはほとんどないといっても過言ではない白州ならではの独特さ。森の空気をたっぷりと吸い込んだ「緑」を感じさせるウイスキーだ。 最後に「白州18年」。ほのかなスモーキーさが心地よい。また、まろやかさも同時に持ち合わせており、バランスがよい。12年の青々とした森林を想わせるフレーバーが、こちらでは初秋の散歩道のようなすこし淡い印象になっている。慎み深いピート香。アタックには色の濃い蜂蜜、紅茶の茶葉のような熟成感がありながら、白州特有の緑のハーブも存在している。アフターテイストでは、12年では瑞々しかったリンゴが熟したリンゴに変化。バニラ、かすかなスモーキーが感じられる。 前村氏は「白州のラインナップの中でもかなり完成度が高い」と自信を見せる。グレッグ氏は「12年の中にあるスモーキーとシェリーの表現が非常に魅力的。18年はそれがさらに高められている」と驚きを隠せない様子。「私たちにはこのフレーバーはありませんから新鮮です。個人的にはとても心が落ち着くような気がしますね」 一通り両蒸溜所のテイスティングを終えて、お互いの印象を伺う。 「原料、スチル、樽…あらゆるところに日本のウイスキーとバーボンの違いがあります。そしてスコッチとも全く違うことが分かりました。できることなら、ここにもっと長く滞在して、一緒にウイスキーづくりをしたいと思います。学ぶことが本当にたくさんありますね」とグレッグ氏。 「そして求めている最終目的が非常に近いと思います。そこに向かって進む― 国は違えど同志という感じですね。今度は私たちの蒸溜所をお見せしたい。前村さん、ぜひ来てくださいね!」を前村氏に熱く語りかけた。 前村氏は「樽材からの香りに重きを置いたバーボンが多い中で、メーカーズマークはウイスキーそのものの風味を大事にしたバーボンだなと感じました。私は工場の、つくる側の人間なのでその『つくりのこだわり』に共感しましたし、感銘を受けました」そして「工程は違ってもこれだけマイルドな、柔らかいウイスキーをつくる。その点においても驚きましたね」と話してくれた。 メーカーズマークは、バーボンではあるがWhiskyと綴る。スコットランドにルーツを持つ、サミュエル家のこだわりなのだそうだ(同社は家族経営ではあるが、グレッグ氏がマスターディスティラーを務めている)。 同じようにスコットランドの流れを汲みながら、スコッチとは異なるスタイルのウイスキーをつくる白州蒸溜所。スコットランドから巣立って2つの国でそれぞれに発展し、独自のウイスキーづくりを確立した、まるで違う環境で育ちながらもどこか似ている兄弟のようだ。 邂逅した2人のつくり手は固く握手を交わした。この先も変わらぬこだわりの姿勢を貫きながら、きっとお互いの姿を思い浮かべることだろう。 赤い封蝋と緑のボトル。それぞれのこだわりを持っていながらも、そこには同じスピリッツが宿っている。   プレゼントのお知らせ ★サントリー酒類販売株式会社様のご厚意により、 BOND#1会員5名様にメーカーズマーク・レッドトップ&グラスをプレゼント!★ (BOND#1とは、ウイスキーマガジン・ジャパンのプレミアム会員サービスです。 詳しくはコチラ ) ご希望の方は、info@drinksmedia.jpまで ・お名前 ・ご住所(プレゼント配送先となります) ・お電話番号 をご記入のうえ、タイトルを「メーカーズマーク プレゼント希望」としてメールでお申し込み下さい。 ※ご当選の発表は、賞品の発送をもって代えさせていただきます。 ※お送りいただいた個人情報はプレゼントの発送のみに使用し、抽選・発送終了後は削除致します (株式会社ドリンクス・メディア・ジャパンのプライバシー・ポリシーに準じます)。 締切 6月23日(日)24時 関連記事はコチラ Jim Beam meets 山崎 【前半/全2回】 Jim Beam meets 山崎 【後半/全2回】 [...]

ルネサンスの男・ビル博士【前半/全2回】

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革新と生化学反応について、今までも様々な記事に登場してきたビル・ラムズデン博士(グレンモーレンジィの蒸溜ならびにフレーバー開発の責任者)と語り合った Report:デイヴ・ブルーム ビル・ラムズデン博士はふたつの顔を持つ。科学者ビル・ラムズデン博士の顔と、ウイスキーの果てしない複雑さと可能性に興奮し魅せられているグリノック出身のウイスキー愛好家ビル・ラムズデンの顔。まるでジキルとハイドのような、スコットランド人特有の分裂的性格(Caledonian antisyzygy)である。 「ああユーカリとミントが出て来たね」多くの熟成ウイスキーにミントを感じる私は、テイスティングの最中に思わず口にした。「その通り!」言葉が溢れ出す。 「これはジエチルアセタールだよ。ニューメイクにはあまり含まれていないけど、樽の中でアセトアルデヒドが酸素とアルコールの存在下でフリーラジカルと反応して、ジエチルアセタールを作り出すんだ。そして樽材がアクティブならば樽の中で酸化も進みやすい」 この説明は非科学者には恐ろしく難解に感じられることだろう。 「かつてはグレンモーレンジィの特徴を万華鏡のようだと表現していた。つぎつぎに何かが現れてくるからだね。パリのモエ・ヘネシー社は我々がもっと創造的になり、それを表現するための道具を産み出すようにと焚き付けて来るんだ。単に直立不動の姿勢で『オレンジの香りがします』なんて言う代わりにね。もっともっとエモーショナルな表現を創造することができるはずだ。より生き生きとした表現を追い求めている最中なのだけど、映像を使う事はとても楽しいね」 ガスクロマトグラフや質量分析計を使いながら、アロマ心理学者で知覚委員であるビルとSWRIのレイチェル・バリーが同時にノージングを行っていることを説明してくれた。「その結果を使ってフレイバーがどこから来たかを解明しようとしている。既にオリジナルのグレンモーレンジィだけでも140種類の異なるアロマを区別しているし、その先の作業も進めていて、最終的にはそれぞれのフレーバーが製造過程のどこで産み出されているかを解明したいと思っている」 全てを解き明かそうということ? 彼は笑って答える。「おそらく一生を費やすに相応しいだろうね」 スティッツェル・ウェラー蒸溜所の外にあるパピー・ヴァン・ウィンクルの看板のイメージが心をよぎる。「化学者お断り」。化学者の冷たい手は技術的には正しくとも魂の抜けたウイスキーをつくってしまう。しかし、ここでは逆のことが行われている。化学的素養に裏打ちされた実践的な応用が行われているのである。グレンモーレンジィの抜本的な進歩がその証拠である。 そのもっともわかりやすい例がアスターである。成長が遅く材質が細密なアメリカン・ホワイトオークによる特注の樽で熟成されたウイスキーが新しいグレンモーレンジィの中心に腰を据えている。「この樽の利用は単にオリジナルの基礎にしたかっただけなのだけど、なるべく純粋な形で提供しようとしていたんだ」 ところが、テイスティングすると考えが変わった。「そこで感じたのは、溢れるバターの香り、蜂蜜、削られた木、スパイス、トーストしたオーク、パイナップル、マジパンそしてココナッツとクールな大量のメンソール。そいつはとても、とてもグレンモーレンジィだったんだ」 本当に? これは新しい基準として磨き上げられ、長い雌伏のときを過ぎて真の正体が明かされたグレンモーレンジィなのか? それともこの21世紀に問いかける新しいグレンモーレンジィなのか? 「アスターは新しい軸だね。でもこれはずっと追いかけていたスタイルにそった方向だし、アスターで使われた要素は、オリジナルにも実際に影響を与えている。よりしっかりしたかたちと、丸みと、そして甘みをね」 「生まれて初めて試したシングルモルトはグレンモーレンジィの10年だった。1984年に味わったあのより深い味わいの記憶に近付きたいんだな。あの深く、力強く、まろやかな感動を再び味わいたいと思っている」 同様の「バックトゥーザフューチャー」アプローチはアードベッグでも行われつつあるといえる。 「我々は、古いアードベッグのスタイルを忠実に再現しようと努力してきた。気が付いて貰えるだろう違いは、より高品質のオーク、新しいバーボン樽、そしてごく少数の優れたシェリー樽の投入だろう。そうした樽の影響をルネサンスでは味わう事ができる。とてもフルーティなパイナップルの香りは樽に由来するものだ。これが『旧』と『新』の主たる違いなのだけどね」 実際にはそれほど単純なものでもない。以前発売されたシグネットによって、彼のウイスキーの旅は原点回帰を果たした。ある意味、ビルにとって最も古い馴染みの最も新しいウイスキーなのである。 「84年の私はヘリオット=ワットの呑気な大学院生で、クリスタルモルトとかチョコレートモルトなどを使って、魅力的なフレーバーを手作りビールに与えることに興味を持っていた。そのころ私と友人のイアンは駅へ渡る道の上でアイデアを交換していたものだったけど、よくジャマイカン・ブルーマウンテン・コーヒーを買っていた。そこで使われていた窯を使って回転ローストを行う技法も興味を惹くようになったね」 「そして、あるパーティに行ったときに、誰かが私に1杯のモルトウイスキーをくれたんだよ。あっという間に虜になったね。誓って言うけど、それがグレンモーレンジィ10年だったんだ。それが蒸溜を面白いキャリアにできると決心した時だね」 メンストリーのディアジオの研究所で少し働いたあと、会社のディスティラリーマネージャー教育を受けて、1995年にグレンモーレンジィのマネージャー職を得た。「ついに来た、と思ったね。回転ローストした材料を使ってウイスキーをつくったら面白そうじゃないか? 90年代にはチョコレートモルトを使った少量生産を始めていたんだ。それはそれ自身としてかなり強烈だったけど、シグネットのような複雑なレシピの一部としても使えたんだよ」 これこそ「革新/ルネサンス」(スコッチの世界では、やや過剰に使われすぎている言葉ではあるが)である。 シグネットはチョコレートモルト、長期熟成ウイスキー、シェリーでフィニッシュまたは熟成を行ったウイスキー、オークの新樽、カドボルバーレイ、そして「秘密の何か」を組み合わせたものである。狭くて保守的なウイスキーの世界のなかでは、風変わりな手法だと思われた。しかしそれはうまく行ったのである。 アードベッグにも同じような方法が? 「ピーティなウイスキーで革新を起こすのは簡単ではないし、追加熟成もアードベッグの戦略の一部ではないので、もっと根本的に考え直す必要があるね。そこがスーパーノバの入る場所だったのさ。極端に行く事を決めた。そこで味のプロフィールを基準に最もピーティな我々自身の樽を選んでファーストフィルを行ったんだ。ブラスダが一方の端に位置するならば、スーパーノバは反対側の端に位置するものだね」 →後半へ続く

ルネサンスの男・ビル博士【後半/全2回】

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本サイトのいたる記事にその名を連ねるビル・ラムズデン博士。彼が巻き起こす革命は業界を席巻する可能性を持っている。 Report:デイヴ・ブルーム ←ルネサンスの男・ビル博士【前半/全2回】 先ほどまで、グレンモーレンジィとアードベッグについて真剣に語り合っていたのだが、どういうわけか、話題は無名のスコティッシュバンドたちへと移っていった。 私がChou Pahrot(70年代の風変わりなックバンド)の名を挙げると、ビル・ラムズデン博士はAbandon Your Head(「頭なんて捨てちまえ」という意味)の名を返して来た。それはウイスキー革新者の名前としてはぴったりだと言うと、彼は笑った。 「スコッチウイスキーの革新は容易じゃないね。なにしろ厳しい法律があるし。まあその法律がある理由も理解はしているけれど、慣習に縛り付けられているだけではいけないと思う。様々な樽によるフィニッシュと、チョコレートモルトの利用だけが過去20年にウイスキー業界で行われた革新だということもできるだろう。それらもとっくに昔の話さ」 「そして、今の我々はこの世界でまだ試みられていない事に挑戦しているんだ」 それってSWA(スコッチウイスキーアソシエーション)【SWAが示す姿勢を参照】と衝突するんじゃ? 「間違いなく。もしシグネットがチョコレートモルト100%だったら、既にそこで衝突していた筈さ」 それから彼は10樽ばかりのグレンモーレンジィをブラジルチェリーウッド樽に詰め替えたときの顛末を話してくれた。 「私はそれをザ・スコッチ・モルト・ウイスキー・ソサエティ(The Society)への説明用に詰め替えたのだけど、1週間もしないうちにSWAから手紙がやって来た。 『その行為が合法ではないことをご理解なさっていることを望む』と書いてあったね。すぐに返事を書いて、私はそうは思わないと述べたよ。ついでに私はウイスキーを退屈なままにしておく技術を追求している訳じゃないんだ、と書き添えたな」もしそれが効果を発揮していたらどうなっていただろう。 彼はただ微笑んで、一番新しいグレンモーレンジィ エクスプレッション(PX=ペドロヒメネスカスクでフィニッシュしたもの)をグラスに注いだ。レーズン、蜜蝋、トンカ豆、金柑、そしてブラックバナナがジンジャーのフィニッシュとバランスをとって混ぜ合わされている。これも悪くない。しかしフィニッシュは肯定的な革新であると同時に、災いの飛び出すパンドラの箱でもあり得る。ビル博士…あなたはパンドラなのだ。 「革新と呼ばれる行為の背景となる哲学は、いずれも強固なものであったけれど、しかし私の見るところこれまでも極端すぎるものに走った会社もひとつふたつ見受けられる。またあるものは単に馬鹿げているだけの変わった用語を提案しようとしていた」 もちろん、数えきれない位の、貧弱でぞんざいにつくられた試作品も世の中にはあったのでは。熟成の足りなさをフィニシュカスクでごまかそうというような? 「これまで本当にひどいものをひとつふたつテイスティングしたこともあったけれど、愚かで良心に欠けた人が不完全なものを生み出すことはなくならないだろうね。私なら本当に良いものだけを選びとって、それ以外はボトリングしないのだけれど」 なにか他に秘蔵のものは? 「1度だけすべての手駒を会社に見せた事があったな」、と彼は笑う。「次の革新のために働いているけれど、そいつはおそらく5年から10年はかかる仕事なんだ。考えてみて欲しい。シグネットは24年かかったんだ!」 革新のプロセスを支える品質が不景気で押さえられてしまうということはないだろうか? 産業全体では樽の品質を上げるのではなく、より品質の劣る樽が使われつつあるという議論が出ているが。 「我々が樽に対してとっているスタンスを、他の人々も真似てくれるものと楽観的に考えていたのだけれど、景気の後退と生産量の上昇によって、世の中では思ったよりも多くの『劣った樽』が使われている。これは将来に向けて問題を積み上げているようなものだ。我々は会社の理解のもとで、バーボン樽の購入数量を増やしているところだ。品質に対してはきちんと投資を続けている」 アスターの樽、商品の再構成、シグネットそしてアードベッグのルネッサンスは旧経営の下では不可能だったと思われるが、それはフラストレーションの溜まる経験だったか? 「もちろん。我々は皆ブランドを進めて行くべき方向を知っていたからね。モエ・ヘネシーはドアの錠を開けるための鍵だったのさ」 こうしたことはみなフランス人主導で行われているという噂もあるが? 「もちろんそうした要素もある。しかしこうした革新はすでに何年も前に始まっていたものだ。ということで、フランス人が我々の手をひいて導いてくれたわけではない。実際にはポケットに深く手を差し込んでくれているのさ。そうした(金は出しても口は出さない)やりかたこそが最も主要な貢献だね。本当に良い事だよ」 スコットランド人の二重人格同士の戦いは会社自身にもかつて見られた。 シングルモルトの会社にも関わらず、高級プライベートブランドを生産する部門も持っていたのである。そして本体のモルトは、その部門によってロスリーダー(コストを下回った価格で安く売り、他の利益率の高い商品へと誘導することを狙った商品)として扱われていた。商品のラインナップが再構成されると、それに続く数ヵ月の間英国内ではグレンモーレンジィのオリジナルを10ポンド引きで買う事ができたのである。 タイミングはこれ以上ない位に悪かった。会社がプライベートブランド部門とグレンマレイを手放したときにも必然的にディスカウントが行われたのである。グレンマレイは今や世界的な高級ブランドで、単なるスコットランドのベストセラーモルトではない。このことは心理的に大きな転換であった。贅沢とウイスキーの関係は必然であるのか否かといった疑問を引き出して、やがてさらなる金持ち趣味の議論へと移り、液体の話はおざなりになって行った。 「我々はウイスキーディスティラーであってファッションハウスじゃないぞ、という自覚を失う訳には行かないさ。ゲランじゃなくてグレンモーレンジィなんだ。そしてスコッチウイスキーをつくっているのさ」スーパーノバを注ぎ、息を吸い込みながら彼は微笑んだ。この“科学者ビル博士”と“ウイスキー愛好家ビル”の間の創造的な緊張感が私を魅了するのだ。 「1980年代を振り返ると、白いコートを来て、気持ちよいポスドクの世界でぬくぬくと働いていただけだったな。そしてウイスキーがやって来たんだ」彼はグラスを啜る。「科学は全てを白か黒かで説明しようとする。しかし事物をさまざまな方向から眺めるような創造性も持てたら素晴らしいことなんだ。創造性が様々な選択肢を広げてくれる、科学と同様にね」 空港に向かう途上でも、スーパーノバは口の中にずっと残っていた。大きく、力に溢れ、ヤチヤナギ、塩、保革油、チリとタール、広大で複雑な矛盾するフレーバーたち……素朴で優美、荒々しくそして精緻。 おそらくそれはビル自身に似ているのだろう。ビル・ラムズデンの精緻さ、話し方や、服装の趣味、複雑な化学を説明する際の忍耐強い姿勢に似た部分が。しかし常に別の側面も存在する。興奮して叫んだり、笑い好きだったり、くだらないことが好きだったり、なんといってもウイスキー愛好家でありギャンブラーだ。 Abandon Yer Heid?(頭なんて捨てちまうか?)。Aye(もちろん)、でも冷静に。 まったくもってスコットランド人だ。

パターソンの嗅覚【前半/全2回】

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マスターブレンダーにしてウイスキーの守護神であるリチャード・パターソンと、著書の出版を記念して対談を行った。 Report:ケイト・ポートマン 「ハロー」 リチャード・パターソンの声は耳に心地よい。そして彼は、より深く息を吸いながら尋ねるのだ。「ハウアーユー?」ホワイト&マッカイのカリスママスターブレンダーの伝説的マスタークラスのひとつに参加した者なら誰でも、これは彼が目の前のウイスキーに対して行う挨拶であることを知ることになる。 ウイスキーの個性をより良く知るために、表面的な挨拶にとどまらず、ウイスキーとのより深い対話をすることが好きなのである。 そして、それは人に対しても同じである。 彼の著書“Goodness Nose”に関するインタビューをするためにやって来たのだが、私が質問を始める前に彼が私の人生について熱心な質問を始めてしまった。それはとても長く楽しい会話で、おかげでレコーダーの容量を使い切ってしまったが、そのせいで40年間に渡りウイスキー業界に貢献してきた人物からの素晴らしい話への期待はさらに高まった。 グラスゴーのホワイト&マッカイ本社の9階のフロアにあるリチャードのオフィスの中に腰掛けて、彼が生涯のほとんどを過ごして来た街を眺める。 ちらっと周囲を眺めれば、彼の性格に関するさらなる手がかりが得られることになる。本が詰め込まれた棚は飽く事なき知識への渇望と歴史への情熱を示している。彼の好きなルノアールの絵が壁に掛かり、芸術的なセンスを示しているし、窓の下枠にならぶ様々な土産物は旅の多さと世界に対する広範な好奇心を表している。 リチャードは一部の隙もないほどにキメている。ダークスーツにこざっぱりと身を包み、ネクタイと対になったサイン入りハンカチーフを胸ポケットに入れている。 「まあ、皆さんに私が少なくとも努力はしていたな、と思っていただければ幸いです」、と彼は微笑んだ。その服装のスタイルは伝統的で紳士的な価値を反映しているが、彼がその職業で飛び抜けて優秀であることを示唆する、細部への几帳面な注意深さをも表している。 完璧主義者の性格に多忙さが加わり(このインタビューの時点で彼はもう7週間も週末を犠牲にしていた)、40年を100ページへと蒸溜するという偉業は、もともと著作に時間がかかる事を意味していた。本はウイスキーマガジンのライターでもあるガヴィン・スミスとの4年半に渡る共同著作である。数えきれないほどの週末をフェッターケアン蒸溜所のネザーミルハウスで過ごし、その間ウイスキーとシガーを給油し続けてきた事は間違いない! ガヴィンはゴーストライターというよりは協力者として働いてきた。リチャードが多彩な逸話を披露しながらスピリッツへの情熱を率直に述べるその独特の語り口を、読者にはっきりと伝えるという役割である。 リチャードの血にはウイスキーが混ざっている。業界の三代目なのである。祖父はグラスゴーでウイスキーの仲買人を始め、父親もそのビジネスを継いだ。リチャードは60年代に17歳でウイスキー業界の修行を開始した。ウイスキーブームの時代であり、新蒸溜所のタムナブーリンなどが生まれ、生産量が急上昇していた。 「ゆったりとしたランチを摂りながら商談が行われていた良い時代でした。それでも皆に十分な商売があったのです」と、彼は思い出を語った。 働き始めるとすぐに、若き日のリチャードは、ウイスキー業界でこの先も働いて行く事の将来性を意識し、前進を決意した。そしてできる限りの学習に取りかかった。 1970年にホワイト&マッカイに移り、それ以来そこにずっと忠実に留まっている。長期にわたるキャリアを振り返れば、気が遠くなるような9回の買収と16人のボスに出会ってきた。新しい著書はホワイト&マッカイのジュラ、ダルモア、フェッターケアンそしてインバーゴードンの各蒸溜所について深く語っている。そして同時にウイスキー業界全体に過去40年に渡って起きた大きな変化についても述べているのだ。好景気から不景気へ、痛みを伴う過剰生産、蒸溜所の閉鎖、そして合理化等を通じた近代流通の登場などについても述べている。 著書のまた別の見所は、ウイスキーブレンダーの技に関する概要説明である。これはいままでミステリーに包まれてきた主題だ。本書では読者をサンプルルームへと案内してくれる。グラスとウイスキーボトルに溢れたこの場所をリチャードは「宝箱」と呼んでいる。ここは彼がくつろぎそして熱中する場所なのである。ここで彼は基となる全てのモルトとグレーンを、開発の全てのステージに渡って評価する。同時に創られたブレンド自身も評価の対象である。会社がどれほど多くをこの男の鼻の判断に依っているのかがわかる。 25から30種類のモルトとグレーンがひとつのブレンドとなる。それら全てのフレーバーとニュアンスを組み合わせていくのは複雑な仕事である。だからこそ、喩え話が説明には有効なのだ。 「ウイスキーはとても個性的なので、大事な事はそれぞれを個別に知る事なのです。それぞれの個性をね。どのように樽の中でドレスアップすべきか、どのようにパートナー達と組み合わさるのか」、リチャードは説明する。 「第一印象は重要です。しかし同時にその個性が熟成にともなってどのようになっていくのかを考慮しなければなりません。あるものは輝きを保ち、またあるものは消え去って行くのです」   →後半に続く

パターソンの嗅覚【後半/全2回】

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一度でもリチャード・パターソンのマスタークラスに参加した事があれば、彼のユニークかつ深い知識と経験を忘れる事は不可能だろう。その魅力に迫る。 ←パターソンの嗅覚【前半/全2回】 リチャードはマスターブレンダーとしての自らの役割を、ディナーパーティのホストに喩えた。ゲストは彼のブレンドに参加する個々のウイスキーである。選ばれて共に腰掛けることに同意し調和を生み出す。 リチャードは自身のウイスキースタイルをどのようにまとめてくれるのだろう? 「しっかりとしたバックボーンは欲しいのですが、同時に繊細さと暖かさが終わりまで残るウイスキーを愛しています。花のように始まって欲しいですね、そして個性を発揮して、なかなか立ち去らないしっかりとして官能的な調子が続く必要があります」 リチャードのやり方であるダブル・マリッジ(モルト同士をブレンドしてから樽で寝かせ、その後さらにグレーンウイスキーをブレンドしもう一度樽に戻す方法)も、ホワイト&マッカイスタイルの要である。そこではブレンド済みのモルトと、グレーンが混合されるのである。もちろん高くつくやり方ではあるが(会計士の心配を他所に)リチャードは品質と一貫性のためにこのやりかたを主張しているのである。 著書でも説明されている通り、ブレンダーが隷属的に従わなければならない、唯一のレシピなんて存在しない。蒸溜所は閉鎖されウイスキーも変化する。このためブレンダーは製品の一貫性を保つために、常に前もって考え在庫を調整している。もしひとつの材料であったウイスキーがなくなってしまう場合には、ブレンドから外され、同様のスタイルのものがシームレスにブレンドされるようになる。 その卓越したブレンドのスキルによって、リチャードはまたウイスキーと愛飲家のための最も偉大な「外交官」でもある。世界中のウイスキーショーで披露される演劇的ショーマンシップはあまりにも有名だ。 そこではいつも氷のバケツと、風車と、パーティークラッカーが使われて彼のショーを彩っている。 「氷を投げたりして、目立ちたがり屋だ、と言われるかもしれません。でももし私がより大きなインパクトを与えて聴衆の記憶に残るようなことができるなら、それこそが私の目指していることなのです」 リチャードは、彼のつくったウイスキーを飲む人達と直接会って会話する事をとても大切な仕事の一部だと考えている。「人々が耳を傾け始め、純粋にウイスキーを学び味わおうとする瞬間が、なによりも私への賛辞なのです。一番興奮するのが、テイスティングしている人が途中で動作を止めて考え始めたときですね。これは素晴らしいことで、目が輝き始めるのです」 魅力的な話者であるがゆえに、彼がかつてはこうした話をすることを畏れ、また今でも少しナーバスになるということは信じられないかもしれない。セミナーやショーにおいて最悪なのは無関心である。「単に酒をあおりたいだけの人はわかります。そうした人が氷の標的になるのですけどね」 手間暇をかけて技術の解説をしたあと、受講者があまりに早くグラスを置いてしまうと彼は落ち着かない。そこで急がすじっくりと楽しむ事を促すのだ。「鼻と舌をもっと使って下さい。使うためにあるのですから! ウイスキーは探れば探るほど、沢山のものが返ってきますよ」 知識を広める事の大切さを理解しているので、リチャードは雑誌やショーを通してウイスキーの普及活動をする機会を逃さない。「そういった機会はスコッチウイスキーのイメージを世界中にアピールしてくれるのです。その価値は非常に高いのです」 そして彼は、そうした努力に対して常に助力してくれるわけではない、いくつかの企業についての落胆を口にした。またウイスキー産業は他のスピリッツに対抗してもっと自らを盛り立てる必要がある、自己満足している余裕はない、という感覚も述べてくれた。 とはいえ、彼がより楽観的でいられるのは、消費者の興味が盛り上がっているからである。「今はちょうど波頭に乗っているところです。私はずっとこの業界に関わってきましたし、沢山の隆盛を目撃しましたが、今回がウイスキーにとってもっとも素晴らしい時代ですね」 業界全体の利益に向けてのウイスキー会社間の協力体制つくりに、ここ数年努力してきた。「ウイスキーにはいつも良くして貰ってきました。だから私もウイスキーに良くしてやりたいのです」と彼は説明した。同様の仕事をする相手に対して敬意をはらう事は勿論だが、彼はあまり脚光を浴びない樽職人や、ピート掘削者達も讃える。「前線で働くこうした人たちの働きなしには、何も生み出す事ができないのですから」 リチャードはまた、アンドリュー・アッシャー(Andrew Usher)やチャールズ・ドイグ(Charles Doig)といった人たちが創始に貢献した過去の重要なスタイルも意識している。「ブレンドの父であるアッシャーは私の偉大な先輩です。しかし彼はほとんど忘れられています。それが2002年に“アンドリュー・アッシャー・ランチ”を行った理由なのですよ。そのときは、これまでの歴史で初めて、企業の垣根を越えてブレンダー達が集まりました」 「1960年代に私がこの仕事を始めたころには、同業界の他の会社の人と話す事は許されていませんでした。閉ざされた扉だったのです」 「今回の本を書くに際して、一番悲しいことは何だったかのと考えてみると、それはもっと父に様々な事を聞いておくべきことだったということです。それでも、父のよき友人であったスペイサイド蒸溜所のジョージ・クリスティーにいろいろ話を聞く事はできたのですが」 彼が、わずかに引退を匂わせる一方、読者はまだまだ書いてもらわなければいけない章があると感じることだろう。著書は既に、インドの億万長者ビジャイ・マリヤによるホワイト&マッカイの買収について記述するために増補されている。リチャードによれば90年代半ばの暗黒時代は、「会社は舵のない船であり、嵐の中を船長なしに漂い、船員は混乱し疲弊していた」ということである。これは前身であるキンダール社による失敗である。ホワイト&マッカイは今や方針を変え、リチャードという至宝の価値をはっきりと認識しているのである。 レア・アンド・プレステージウイスキーシリーズの開発と、ダルモアを会社の王冠を飾る宝石のようなモルトの位置へと再び戻すことによって、リチャードが最良の手を打った事が明らかになりつつある。酒販店の扱い量は増加している。特にリチャードが熱心に取り組んだ、超熟のウイスキーが。これは時間と忍耐への報酬である。 「この仕事での最も大きなスリルは、例えば40年といった長期間に渡ってウイスキーを熟成させ、その仕上がりが素晴らしかったときなのです」

フォアローゼズ蒸溜所マスターディスティラー ジム・ラトリッジ氏インタビュー 【前半/全2回】

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7月21日に開催された「バーボン&アメリカンウイスキーフェスティバル」にあわせて来日されたフォアローゼズ蒸溜所マスターディスティラー ジム・ラトリッジ氏へインタビューの機会をいただき、お話を伺った(通訳・説明:キリンビール株式会社チーフブレンダー 田中 城太氏)。 ――本日はお忙しい中お時間いただきましてありがとうございます。 まず、今回のイベントに参加されてのご感想をお聞かせ下さい。 ジム・ラトリッジ氏 (以下ジム氏) 今回は日本で初めてのバーボンフェスティバルということで、過去22回行われているアメリカの「ケンタッキー・バーボン・フェスティバル」の開催当初の頃を思い出しました。今でこそ6日間に渡って5万人が訪れるイベントになりましたが、1992年に行われた第1回に比べますと、こちらのほうが大盛況でしたし、来た甲斐がありましたよ! セミナーでも、ブースでも皆さんの熱心さが伝わってきましたし、想像以上にバーボン、フォアローゼズについて関心をお持ちいただいていることに感激しました。 ――セミナーに参加させていただきまして、5種類の酵母と2つのマッシュビル(原料のレシピ)から10種類の原酒をつくり分けるというフォアローゼズのつくりを詳しく知ることができました。マッシュビルはコーンの比率が多い「タイプA」とライ麦が多めの「タイプB」があるとのことでしたね。そして原料の品質にも非常にこだわっていると感じました。 ジム氏 まず「いい原料がなければいいバーボンはつくれない」これが私の最大の信念です。ライ麦は今年はドイツ、去年はデンマークと、産地にはこだわらず最高品質のものを使用するという点を重視しています。トウモロコシは53年間変わらず、厳しい生産管理をする米国の農家と契約し非遺伝子組み換え品を仕入れています。 ――また、大変興味深かったのが5種の酵母それぞれが華やかさやリッチなフルーティさなどの個性を生み出すというお話です。この5種類の酵母は、オリジナルのものなのでしょうか? ジム氏 フォアローゼズは1943年からシーグラムグループに加わったのですが、シーグラムでは当時から酵母について盛んに研究を行っていました。酵母は自然変異を起こしやすいので、その変異を起こさないように注意していくと同時に、変異したもののなかからもより優れたものを選び、フリーズドライ(凍結乾燥)にしてストックしていくという方法を取っていたのです。そして最終的に300種を超える菌株の中からフォアローゼズの求める性質を得られる酵母を厳選しました。ですから、現在使っている5種の酵母は完全なオリジナルということになります。 ――酵母によって発酵の過程は異なりますか?温度や時間など、調整されていると思いますが。 ジム氏 5つのうち2つの酵母は発酵がゆっくりです。通常80時間かかるところが83時間くらいかかります。同じ酵母でもマッシュビルのライ麦の比率によって発酵の進み方に違いは出てきますが、ほかの3種はだいたい同じです。どの酵母も元気な発酵をしてくれますよ。 ――熟成庫が平屋(Single Story)であるというのも独特かと思います。温度差が生じにくいとのことですが、樽のローテーションはされないのでしょうか。 ジム氏 多くの蒸溜所では樽を高く積み上げ、ローテーションを行うことで熟成庫内の温度差による熟成の進み方の調整を行うとしていますが、それには莫大なコストがかかります。私たちは熟成庫を平屋にすることで、上の方で寝かせている樽と床に近い位置で寝かせている樽の環境差をなくしています。高く積んだ場合、上部と下部の温度差は20℃くらいありますが、私たちの6段組のラックでは5℃程度です。ですから、位置を変える必要がありません。そのためローテーションにかける費用も時間も節約することができます。もちろん長期の場合には多少の熟成感の違いは生じますが。品質を均一に保つために、平屋造りの熟成庫にこだわっています。 後半に続く 関連記事はこちら ミックスとマッシュ アイコンズ・オブ・ウイスキー/アメリカ 発表【前半/全2回】 世界のウイスキー、100人のレジェンド その3【全4回】  

フォアローゼズ蒸溜所マスターディスティラー ジム・ラトリッジ氏インタビュー 【後半/全2回】

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フォアローゼズ蒸溜所の哲学―シンプルでありながら、一切の妥協を許さず最高品質を追い求める。マスターディスティラー ジム・ラトリッジ氏が語るつくりのこだわり、インタビュー後半をお届けする。 ←前半 ――なるほど、樽の環境を一定にすることで品質を保つだけでなく効率も良いというのは、何万という樽の管理をする上で大変重要になってくると思います。 ちょうど今も仰いましたが、セミナーでも印象的だったのがとくに「均一」という言葉を繰り返された点です。均一にすることを重要視されていると思いますが、そのために10種類の原酒をつくり分けるというのが興味深いです。単に均一を求めるのであれば、ひたすら同じものをつくり続けるほうが良いと思いましたが、あえて原酒をつくり分けるのですね。 ジム氏 10種類の原酒をつくる一番の目的はイエローラベルの品質を常に安定することでした。原酒を組み合わせることでそれぞれの原酒の特徴をうまく調整して、同じ品質のものをつくっているのです。また一方で、現在プレミアムバーボンが増えていますが、シングルバレルバーボンやリミテッドエディションの商品開発において、他社では単一の原酒から樽の違いや熟成年数の違いで表現するところを、フォアローゼズの場合はタイプの異なる原酒の中から選び出すことができ、よりお客様に香味特徴の違うものをお楽しみいただけます。酵母や仕込みの段階から香味特徴の多様性を出せるというのが我々の強みだと思っています。 ――だからこそフォアローゼズのシングルバレルは個性的、ということですね。 個人的な感想になりますが、本日セミナーで提供された5種類のテイスティングサンプルの中では、OESQ(コーンの比率が多いマッシュビルにフローラルな酵母を使用したもの)が一番好きでした。というのも、バラのような香りがして、華やかさと同時に繊細さと柔らかさがあり、これぞ花の名前を冠したウイスキー「フォアローゼズ」!という印象を受けたのです。 ジム氏 あのサンプルは7年熟成のもので、今日お出ししたサンプルの中には一番長くて13年熟成のものもあったのですが、熟成のピークが原酒タイプによって異なり、熟成のピークを過ぎると、そういった特徴的な香りが失われてしまうこともあるのです。大切なのは熟成年数ではなく、熟成のピークを見極めることという好例ですね。まさにQタイプの酵母はバラの赤い花びらを想わせるような香りをつくり出すフローラルタイプで、そういう印象を持っていただけたことは嬉しいです。 ――セミナーに参加した方は様々な感想を持たれたと思います。「私のテイスティングコメントが正しいのではなく、皆さんが感じたそれぞれの印象が大切なのです」と仰っていましたが、その通りだと思いました。 では、最後に日本のウイスキーファンにメッセージをお願いします。 ジム氏 これまで何度も来日していますが、日本の皆様のバーボンに対する知識や関心の高さにはいつも驚かされ、とても嬉しく思っています。 フォアローゼズを多くの人に飲んでいただき、その美味しさに触れてほしいという想いがあります。もっと我々の商品に触れていただき、様々な味わいを愉しんでいただければといつも願っています。もちろん飲み過ぎには注意していただかないといけませんが(笑)。 ――ありがとうございました。 幸いなことに、通訳と説明を兼ねてキリンビール株式会社チーフブレンダーの田中 城太氏にご同席いただくことができた。ジム氏の言葉に加えて、田中氏がフォアローゼズに勤務されていた経験からも補足していただいたことでより詳細に、そしてジム氏の人柄も伝わる興味深いインタビューとなった。いつか田中氏にもじっくりと、富士御殿場蒸溜所の魅力をお伺いしたい。 世界中、どこのバーにもあるフォアローゼズ。広く愛されるにはまず常に品質、味が一定のものを供給することが大切だが、最高品質のものを均一につくり続けるのは簡単なことではない。そのうえでユニークなシングルバレルで懐の深さを見せるのだから、一流とはこういうものかと感銘を受ける。ジム氏の情熱の真っ赤な薔薇は、世界中に咲き続けていくだろう。   「フォアローゼズ シングルバレル リミテッドエディション 2013」 ジム・ラトリッジ氏が2013年の特別限定品として、バーボンとしては貴重な長期熟成原酒の中から13年熟成の原酒樽を厳選。 アルコール度数が60%のボトルと58%のボトルを、あわせて170本の数量限定で発売する。 販売方法はバーボンフェスティバルでの先行販売(終了)、ブランドサイトからの申し込みによる抽選当選者への販売。 申し込み期間は8月31日まで、通信販売当選者確定は9月11日(水)ごろの予定 (商品発送は9月中旬)。 詳細はこちら     

ケイデンヘッド×マッシュタン×WMJ クロストーク

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新生ケイデンヘッド ファン待望のカスクストレングスを引っさげゼネラルマネージャーのマーク・ワット氏が来日。目黒 ザ・マッシュタンのオーナー鈴木徹氏を交え、到着したてのボトルをテイスティングした。 9月末某日。前日までの秋晴れの空は打って変わり、時折小雨がぱらつくまさにスコティッシュ・ウェザーの中、マッシュタンを訪れたマーク・ワット氏(以下、マーク)。落ち着いた雰囲気の中、店主の鈴木徹氏(以下、鈴木氏)が温かく迎えた。 初期のウイスキーマガジンライヴ!から10年来の知り合いの両者は公私ともに親交があり、双方の国を訪れる際は必ず、鈴木氏はマークを、マークはマッシュタンを訪ねるのが常となっている。今回も例に漏れずマークがマッシュタンを訪れたわけだが、彼らがどんな会話を交わすのかウイスキーファンなら興味を持つことだろう。というわけで、そんな彼らのウイスキークロストークにウイスキーマガジン・ジャパン(以下WMJ)もお邪魔させていただくことにした。 【今回のテイスティングボトル】 ・ケイデンヘッド グレンアラヒ1994 54.4% ・ケイデンヘッド ハイランドパーク1988 ダークシェリー 55.7% ・ケイデンヘッド コンバルモア1977 58.2% ・ケイデンヘッド キャパドニック1977 50.2%   WMJ:それでは早速始めましょう。鈴木さん、よろしくお願いします。それじゃあマーク、この4種類なら飲む順番はどうしたらいいですか? マーク:そうだね、まずはグレンアラヒ、そしてコンバルモア… うーん。トリッキーだね。…(無言でそのあとにハイランドパーク、キャパドニックの順でボトルを並べる) 鈴木氏:ははは、僕もその順番だと思うよ。 マーク:(ハイランドパークとキャパドニックを指さしながら)この二つはビッグシェリーだから最後が良いだろうね。 鈴木氏:それぞれハーフショットでいいかい? マーク:Yes, ハーフショットで。シェアしようか。   グレンアラヒからテイスティングスタート。 WMJ:グレンアラヒですか。グレンアラヒは味わいにいろいろなスタイルがありますよね。驚くほどおいしいものがあったと思ったら、かなり変わった味のものがあったり。 マーク:そうだね。グレンアラヒは…「安定している」とは言えないかな。とてもユニークだね。 鈴木氏:香りに少しニューポットのニュアンスがあるけど、舌に乗せると…うーん、プラムやちょっとラズベリー。 マーク:このウイスキーは香りが開くには数分かかりそうだね。 鈴木氏:少し加水してみたんだけど、ニューポットの香りはきれいに消えたね。でも個人的にはこのモルトはストレートで飲むのが好きかな。 マーク:僕もだよ。 鈴木氏:いいウイスキーだね。で、価格も良い。 マーク:アリガトゴザイマス。僕はできるだけ適切な価格で製品化しようと心がけてるから。だから豪勢な木のカートンとか過剰なパッケージングは極力しないようにしているんだ。それで価格が倍になったりするのは馬鹿げているし。僕らはウイスキーを『飲んで』欲しいと思っているんだ。それがウイスキーがつくられる理由だと思っている。 WMJ:そうですね。大切なことですね。ウイスキーは飲むためにある。WMJも大いに賛成します。というわけで、飲みましょう!(笑)それでは次は…コンバルモアですね。   鈴木氏:コンバルモアは…ちょっとオイリーで、ドライだけど、味は…ショートブレッドだね。 マーク:Yeah! ショートブレッド!まさにそれだ。ショートブレッドは良い例えだ。特にショートブレッドを作っているときの雰囲気。アベラワー蒸溜所の近くを通った時、こういう香りがするだろ(笑) 鈴木氏:ははは、そうだそうだ。アベラワーの近くのウォーカーズの香りだ!間違いない!(※アベラワー蒸溜所の並びには英国で最も有名な菓子メーカーWalkersの工場がある) 鈴木氏:…フィニッシュにはメンソールを感じるね。 マーク:その通り!僕もそう思うよ。メンソールと言っても薬っぽくはない。クリーミーなメンソールだね。 鈴木氏:開けたての時より断然旨い。びっくりするぐらい。 WMJ:短時間でそんなに変わりました? 鈴木氏:開けたてをさっき飲んだときはちょっとウッディすぎるから放っておこうと思ったんだけど、もう今はすごく旨い。すごく変わった。   マーク:そうかい?それは良かった。気に入ってくれて嬉しいよ。次のハイランドパークはどうかな?ビッグだろ? WMJ:すごく強いですね。骨太でがっしりとしている。ウッディさが凝縮している。ぜひマークのコメントを聞かせてください。 マーク:ビッグシェリーで、少しだけサルファー(硫黄)のタッチがあるけどまったく悪いものではない。ブルーベリーやレッドカラントのフルーティさ。クリーミーさがバックグラウンドにしっかりある。それと灰。きめの細かい灰。 WMJ:ああ、なるほど。確かに灰っぽさはありますね。こういう灰っぽいフレーバーはどこから来るのでしょう? マーク:それは分からないけど…、たぶんピートから来るんだろうね。そして同時に味わいには『石』のような鉱物感を感じないかい?少し硬い感じだね。 WMJ:う~ん。美味しい(日本語で)。 マーク:オイシイis good!(笑)   WMJ:それでは最後にキャパドニックを試してみましょう。見るからにすごいカラーですね。 マーク:シェリーの風味を強く帯びているけど、アップルみたいなフルーティな味わいはまさにキャパドニックだね。 鈴木氏:まるでコニャックのように葡萄のニュアンスが強いね。 WMJ:これもまたボリュームがありますね!パワフルでありながらキャパドニックのフルーティさもしっかりある。これもまだまだ固いですね。時間が経つと変わりそう。 マーク:タニック(Tannic=樽由来の渋み)だからね。しばらくはナイフとフォークが必要かな。(笑)もしまだボトリングせずにさらに熟成が進むと、そういうシェリー樽由来のフレーバーがより一層強くなりすぎてバランスが悪くなるだろうね。だから僕はこのタイミングでボトリングしたのがベストだと思っているよ。 鈴木氏:気持ち多めに加水するとバニラやまた違ったキャラクターが出てくるね。 マーク:長期熟成だけど驚くことにまだ55.7%もある。加水しても大丈夫。まだ強い。ただ、僕は普段はヘビーシェリーのモルトはだいたいニート(ストレート)で飲むことが多いんだ。長期熟成のシェリーカスクに加水し過ぎるとすべて味が飛んでしまってフラットになってしまうことがあるからね。シェリーカスクのモルトに加水するときは慎重にしなければならない。フレーバーが台無しになっちゃう恐れがあるからね。とはいっても、個人個人が自分の好きなスタイルで飲むのが一番かな。正解とか間違いとか、ウイスキーにはそういうものはないと思うよ。 鈴木氏:最近加水に凝っているけど、注意深くやらないとね。ただ、加水がばっちり決まった時の味わいがガラッと変わる瞬間は本当に面白い。少しずつ加水して良いポイントを探すのは、また新しいウイスキーの楽しみ方だと思うよ。 マーク:世界的に有名なブレンダー、リチャード・パターソンはノージングするときはアルコールが20%になるまで加水するらしいね。その度数が一番香りを掴みやすいと言っていたよ。ただ味わいは平坦になってしまうから、あくまで香りをかぐ時だけらしい。僕個人的には、味を見るときはやっぱり40~46%くらいがベストだと思う。 [...]

ブッシュミルズの女性マスターブレンダー

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アイルランド初の女性マスターブレンダーへインタビュー Report:イオワース・グリフィス ブッシュミルズ蒸溜所は、1784年に蒸溜所として登録されたが、その歴史はさらに1608年まで遡るという。現在のような蒸溜所が1608年当時も存在していたかどうかは定かではないが、ブッシュミルズの村を含む広範囲においてウイスキーを製造する独占ライセンスが、トーマス・フィリップ卿に授与されたのがこの年だった。 当然、ブッシュミルズはその長い歴史を誇りとしている。それ故に回顧主義に固まっているのではないか? もちろんそんなことはない。アイリッシュウイスキー業界で唯一、女性でマスターブレンダーという偉大な肩書きを持つヘレン・マルホランドに会えば、そのような考えは即座に吹き飛ぶだろう。 ヘレンは、蒸溜所からわずか10マイル足らずに位置するポートスチュワートの出身である。つまり、生粋の地元人だ。彼女は食品技術者としての勉強を積み、最初にブッシュミルズを訪れたときは研修生としてであった。それは短期間の滞在であったが、彼女に強烈な印象を残した。「ブッシュミルズのゲートをくぐり、建ち並ぶ白い漆喰塗りの建物を目にした途端、ここから離れたくないと思いました」 だがその願いはかなわず、彼女は研修を終えてブッシュミルズを離れ、コカコーラ・ボトラーズの研究員としての初仕事に就いた。 しかし、それは長くは続かず、研究技術者としての彼女をすっかり魅了してしまったブッシュミルズへの帰還を果したのだった。 それ以来、彼女がこの地を離れたのは、博士課程を修了するために、樽の中のウイスキーの熟成に関する研究論文を完成するための1年間だけだった。その後、彼女は品質やコンプライアンス関連の管理職をいくつも歴任していったのだが、あるとき変化が訪れた。 2005年、子会社のアイリッシュ・ディスティラーズ社を通じて同蒸溜所を所有していたペルノリカール社が、ディアジオ社に同蒸溜所を売却したのである。この取引によって、ペルノリカール社はアライド・ドメック社を手中に収めることになる。その当時のマスターブレンダーは、ビリー・レイトンが務めており、ブッシュミルズと、アイリッシュ・ディスティラーズ社がカウンティコークに持っていた主要工場の両方を兼務していた。 この取引が成立したことにより、ディアジオ社には新しいマスターブレンダーが必要となった。外部から採用する代わりに、ディアジオ社はその先見の明を生かし、ヘレン・マルホランドをアイルランド初の女性マスターブレンダーにするべく、彼女にトレーニングを施したのである。 マスターブレンダーになるためには、「優れた感覚を持ち、それに仕事を愛していなければなりません」と、ヘレンは言う。 彼女は「カスクを心から愛し、倉庫に行き、暗闇と寒さの中、バレルを眺めながら歩き回るのが何よりも好き」なのだという。万人にとって魅力的なことではないかもしれないが、彼女は即座にこう付け加えた。「とにかく、ウイスキーが大好きでなければ務まりません」 彼女の日常は、研究所に行ってどのようなティスティングパネルが必要かを確認することから始まる。通常の品質テストに加え、最上位3つのシングルモルト(12年ディスティラリー・リザーブ、16年モノ、および21年モノ)に使用される個々のカスクテストを務める。パネルの審査を受け、合格したものしかこの3つの優れたシングルモルトに使用することは許されない。 彼女はフォーミュラ、すなわちレシピを製作し、新しいスピリッツを熟成させるためのカスクを決定する。この作業には、蒸溜所に搬入される新しいカスクのチェックも欠かせない。 彼女のもうひとつの任務は、数あるブッシュミルズのウイスキーの材料が不足しないよう、カスクの在庫を確認することだ。それらの作業を終えると、彼女は時間を見つけては倉庫の中を歩き回り、さらにカスクを入念にチェックする。 新しい製品の開発に加え、スペインやポルトガル、またマデイラ諸島に飛んでカスクを調達したり、後にブッシュミルズウイスキーを詰めるためのシェリー、ポートやマデイラワイン樽を選び出すことも彼女の務めだ。 この仕事の最も良いところは、「自然と共に働き」、そして「人々と共に働く」ことだ。彼女が勉強してきたことは全て科学に基づくものではあるが、予測のつかない自然や天然素材を駆使してウイスキーをつくりだすことを、彼女は楽しんでいる。「全く同じ時期に詰められたふたつのカスクから、僅かに異なる製品ができたときは、わくわくします」 彼女は、ブッシュミルズの同僚たちと共に働くのも好きだ。彼らは「特別な存在」であり、「この蒸溜所で働くことを純粋に誇りに思っている」のだという。 どのブッシュミルズウイスキーが好きかと聞かれると、彼女は最初、「それぞれの場面によって、タイプが異なります」と、建前上の正解を言った。しかし、彼女が常に身近に置いているウイスキーがひとつある。ブッシュミルズ1608年記念バージョンは、この地域でのウイスキー製造400周年を祝い、2008年に発売された製品だ。このウイスキーは、ブレンドの中のモルトウイスキーの成分が、10年以上熟成されたクリスタルモルトから蒸溜されたウイスキーを詰めた実験的なカスクからつくられたという点で、若干珍しいものとなっている。 なぜこれが特別なのかというと、「私にとってこのボトルは、私が初めて開発した新しいウイスキーであり、また娘が生まれた年(正確には誕生の6週間後)に発売されたものなので、まさしく特別なものなのです」と、彼女は言う。 確かにヘレンはこの仕事を心から愛しているが、ブッシュミルズのマスターブレンダーになって不都合なことは何もなかったのだろうか? ヘレンは何もないと言うが、この仕事をしていてちょっと悲しいと思うことがあるそうだ。 「ウイスキーがバレルに詰まれるのを見ていて、これがもう21年後まで出されないと思う時です。どのように熟成したかを、私が確かめることはおそらくできませんから」 ともあれ、ディアジオ社が蒸溜所に今後出資してくれること、そしてブッシュミルズのウイスキーがさらに有名なブランドになりつつあることをヘレンは喜んでおり、またブッシュミルズ蒸溜所がいつまでも、仕事と職場に誇りを持つ固い絆で結ばれた少数精鋭の社員たちにとって、素晴らしい職場であり続けることを確信している。 新しく開発された製品がまもなく発表されると思われるが、それがどのようなものになるのかについては、ヘレンの口は堅かった。「蒸溜所がフル操業で稼動し、将来に備えて蓄えているのを見るのは、とてもうれしいことです」 彼女はさらに、こう続けた。「今、最高に居心地の良い場所ですよ」 ヘレン自身の将来について話が及ぶと、彼女はいつまでもここにいて、倉庫の中をウロウロと歩き回っていたいと語ってくれた。 ブッシュミルズがいかに安全に保護されているか、お解かりいただけただろう。ブッシュミルズ蒸溜所は、過去を忘れず、未来を見据えている。

歴史に名を残す人々

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今日の世界的なウイスキー産業を形成した10人の偉人たちを特集する。ここでは短い紹介しか出来ないが、彼らの人生は、それぞれ個別の特集記事あるいは1冊の本にするに足るほど偉大なものばかりだ。この特集をきっかけに、皆さんの知識欲が刺激されることを願う Report:イアン・バクストン アルフレッド・バーナード(Alfred Barndard)。このビクトリア朝時代を専門とする偉大な歴史家は、現在彼の業績がこれほど重要視されていることに、おそらく驚いているに違いない。『The Whisky Distilleries of the United Kingdom』誌に専門化向けの記事を書いていた彼は、どちらかというと元来、あまり目立たないジャーナリストだったのだ。だが現在、抽象的な表現で読者をじらしたり、必要以上に細部にこだわる彼の見事な記事は、ビクトリア朝時代の酒づくりを最も完全に伝える記録となっている。既に失われてしまった蒸溜所についての唯一の情報源であり、図らずもアイリッシュウイスキーが衰運に向かう目撃者となっているのだ。 その成功に乗じ(優れたウイスキー作家にはよくあることだが)、彼はいくつもの蒸溜所に依頼され、宣伝用パンフレットの制作も手がけている。これらは現在、非常に希少価値のあるコレクションアイテムとなっている。 M・ジョセフ・アントワーヌ・ボーティ(M. Joseph Antoine Borty)は、フランスのワイン生産者であり、図らずも1862年にフィロキセラ油虫(ブドウの木に寄生する虫)をヨーロッパに輸入してしまった人物である。フランスのワイン業界にとっては災難なことに、彼の故郷であるロックモールは、ローヌ川のほとり、ラングドックの中心地に位置していたため、その理想的な立地条件を得たフィロキセラは急速に蔓延し、ヨーロッパ原産のワインを壊滅状態にしてしまったのだった。ワイン製造の崩壊に伴い、コニャックの製造も急激に衰退し、それによってウイスキーが世界的な優位を占めるきっかけとなった。ウイスキー業界は、こう言うだろう。「メルシー、ボーティ殿!」と。 1824年、イニアス・コフィー(Aeneas Coffey)は、アイルランド(当時はイギリスの一部)の物品税検察官の職を辞任し、ダブリンにあるドック蒸溜所を引き継ぎ、そこで様々な実験を開始した。その頃、既にキルベーギーのロバート・スタインが連続式蒸溜機の特許を取得(1827年)していたが、そのわずか3年後、コフィーは効率を遥かに向上させた改良型蒸溜機をデザインしたのだった。 まもなく、彼はその新しいコフィースティルをスコッチウイスキーの蒸溜所(またはロンドンのジン蒸溜所など)に売り始めたが、皮肉なことに、ジェイムソン、ロー、パワーズらを始めとする、伝統を重んじるアイリッシュウイスキーの蒸溜所らは、「まがい物のウイスキー」しかつくらないとして彼の発明品を拒絶した。その後彼らは大変な費用をこうむることになるのだが。 1860年、英国のグラッドストーン首相によって、未納税のまま保税倉庫でブレンド作業を行うことを認める蒸溜酒法が制定されると、彼のテクノロジーは広く使われるようになった。連続式スティルに対するスコットランドの蒸溜所の関心はますます高まり、それによって蒸溜酒の世界は劇的な変貌を遂げたのだった。 スコッチウイスキーは、遠い昔から衰勢を何度も繰り返してきた。ウェールズ出身のエンジニア、ウィリアム・デルメ・エバンス(William Delme Evans)が、第2次大戦後のスコッチウイスキー業界の発展期に働き盛りであったことは、彼にとって幸運だった。1947年、彼はパースシャーのブラックフォード近くに位置するタリバーディン蒸溜所を取得し、それを彼独自の革新的なデザインに改造した。エンジニアであった彼は、工程の効率化や優れた工場レイアウトなどに強い関心を持っていたため、ワームタブが主流を占めていたその当時、シェル&チューブコンデンサの導入に踏み切ったのである。 彼の業績は即座に認められ、彼はさらにジュラ(現地まで行く為に、飛行機の操縦を習得した)やグレンアラヒ、マクダフなどで新しい蒸溜所の設計を依頼されたが、経営者と決裂。後者のプロジェクトを口にすることは滅多になかった。彼の建築は、グレングラッソーの建物だけでなく、実際には1950年代以降に建てられたあらゆる蒸溜所の設計に影響を及ぼした。ウィリアム・デルメ・エバンスは2003年に死去している。 現在、チャールズ・クリー・ドイグ(Charles Cree Doig)は、スコットランドにおける蒸溜所設計の第一人者として知られている。パゴダ屋根(正式にはドイグベンチレータと呼ばれる)を発明し、1890年代の蒸溜所急成長期に数多くの設計に携わったドイグの作品は、彼の処女作であるグレンバーギ蒸溜所をはじめとして、ダルユーイン、グレンファークラス、ダルウィニー、バルブレア、ノッカンドウ、アバフェルディ、プルトニー、ハイランド パーク、北アイルランドのブッシュミルズ、ダフタウン、タリスカー、グレンキンチー、スペイバーン、ベンローマック、アベラワーなど、枚挙に暇がない。 19世紀末のパティソン商会の倒産とその後の市場の暴落以来、蒸溜所設計の依頼は途絶えた。グレン・エルギン以降、スペイサイドには50年間新しい蒸溜所は建設されないだろうというドイグの予言が的中したことは有名である。 マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)の死は、実に惜しまれる。彼は1987年にはウイスキーに多大なる関心を持ち始め、それが高じて博学なウイスキーの権威にまでなったのだった。特にシングルモルトウイスキーの発展に対する彼の影響力は、語りつくせぬほどだ。彼は、ロバート・ブルース・ロックハート卿や、アルフレッド・バーナード以来、間違いなく最も影響力を持つ唯一のウイスキー作家だった。蒸溜業界は彼の業績を、様々な賞で称えた。中でも最も有名なのが、マスター・オブ・クエイクにノミネートされたことだった。 既に豊富な経験を持ち、また病気が悪化してゆく中にもかかわらず、彼は最後までチャーミングで熱心だった。彼が逝去する少し前、とある蒸溜所を訪問したのだが、とりわけ何の成果も得られなかった中でも、彼は膨大なメモを取っていた。そんなに何を書くことがあるのか、と尋ねた私への彼の答えは、彼の持って生まれた謙虚さと無限に喜びを感じるその人柄を良く表わすものだった。「何にでも、常に新しい発見はあるものだよ」 おそらく、ジョセフ・A・ネトルトン(Joseph A. Nettleton)の存在は、わずかな蒸溜専門家や歴史家を除いて、ほとんど忘れ去られているものだろう。しかしながら、その当時彼は多くの蒸溜所の開発にアドバイザーとして携わり、蒸溜技術に関してはまさに素晴らしい生き字引だった。 彼は、その偉大な作品の中に行き続けている。1913年に出版された『The Manufacture of Whisky and Plain Spirit』は長年にわたり、規範を示すものとみなされており、第1次大戦前の蒸溜作業に関する知識の宝庫だった。19世紀末の伝統的な蒸溜方法について学びたいと思ったら、まず参照すべきはネトルトンの著書だ。 ウィリアム・ヘンリー・ロス(William Henry Ross)は、近代のスコッチウイスキー産業の基礎を構築した人物といえる。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ディスティラーズ・カンパニー社(「DCL」)のゼネラルマネジャー(実質的にはCEO)を務めた彼は、DCLを単なるグレーンウイスキー製造組合から、スコッチウイスキーの世界的な企業にまで発展させた立役者なのだ。 彼の典型的なスコットランド人らしい性格は、1898年から1899年にかけてのパティソン商会の倒産において担った役割によってさまざまな形で鍛え上げられた。その後、効率の悪い時代遅れのウイスキー業界を合理化し、効率を上げることを決心した。 先見性を持ち、またその一方で熱心だった彼は、様々な経営者をおだてたり脅したりしながらDCLの旗の下に引き入れ、その結果1920年代の操業停止の波の中で、多くの蒸溜所を閉鎖させた。このことは今でも様々に議論されているが、彼の信奉者たちに言わせれば、それがこの業界を救ったのだ。 ひとりの男が、ひとつの産業を興すことなど出来るものなのだろうか? 日本のウイスキーの父として知られる竹鶴政孝氏は、それを成し遂げた。竹鶴一家は、1733年の昔より造り酒屋を営んでいたが、政孝の心を捉えたのはスコッチウイスキーだった。1918年、彼はスコットランドに留学し、まずグラスゴー大学で、そして後にロングモーンとヘーゼルバーンの両蒸溜所でスコッチウイスキーについて学んだ。 日本に帰国した竹鶴は、壽屋(後のサントリー)に入り、蒸溜所の設立に尽力した。1934年、彼は日本の中でスコットランドの環境に最も近いと確信した北の国、北海道の余市に自身の会社を設立した。 同社は後にニッカと名づけられ、その最初のウイスキーは1940年に発売された。それ以来、彼のつくるウイスキーの品質は、世界中で認められている。 最後に紹介する、スコットランド生まれのアンドリュー・アッシャー(Andrew Usher)はブレンディングを発明した人物として記載に値する。1782年のエイプリルフールに生まれた彼は、1813年にその名を冠した会社を立ち上げた。 1840年代に入ると、彼は(言い伝えによると)妻とともに、ブレンディングの実験を繰り返し、1853年にはアッシャー・オールド・ヴァッテッド・グレンリベットを売り出した。ブレンドウイスキーの成功が広がるにつれ、アッシャー社はスコットランド最大の会社のひとつへと成長した。後にDCLに吸収されてしまうことにはなるが、その伝説は今でも息づいている。 以上、10人のウイスキーの偉人たちを紹介するには、あまりに短すぎるものではあるが、彼らの業績を称えることは、実にふさわしいものと思われる。 アイザック・ニュートン卿いわく、私たちは「偉人たちの助けを借りて生きている」のだから。

“Single Malt Odyssey” ブルックラディ ジム・マッキュワン氏インタビュー 【前半/全2回】

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10月23日に新商品5種が発売となったブルックラディ。プロダクション・ディレクター ジム・マッキュワン氏の独占ロングインタビューを2回に分けてお届けする。 まだ暑さの残る9月上旬、日本を訪れたジム・マッキュワン氏にインタビューする機会をいただいた。始めからいきなり「女性がウイスキーマガジンの記者をしているとは、いったいどういう経緯で?私が先にインタビューさせてもらおう、さあ、話して!」とマッキュワン節が炸裂する。ひとしきり雑談で和ませた後、氏はじっくりと語り始めた。以下、ブルックラディが歩んだ12年の軌跡を、マッキュワン氏の言葉で綴ろう。 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ブルックラディ蒸溜所は1994年に閉鎖されていましたが、2000年に操業を再開する際、プロジェクトチームが私に声をかけてくれました。ぜひ参加してくれと。当時私は38年務めたボウモア蒸溜所の一員でした。ブランドアンバサダーとして世界中を飛び回り、そのため空港に近いグラスゴーに住んでいたのですが、故郷であるアイラ島に戻り、ウイスキーづくりに再び携われることは最高のオファーでした。一も二もなく引き受けましたよ。 しかし2001年1月にこの蒸溜所に足を踏み入れたとき、あまりの惨憺たる光景に言葉を失いました。壁は崩れ、蒸溜機器は傷み、まるで再開の望みなどないような状況でした。でも私はアイラ人ですから、ブルックラディが素晴らしいことを知っていました。ここはきっと大丈夫だと信じるに足る、過去の栄光がありました。 そこでまず、閉鎖された際に解雇された元のスタッフたちに声をかけました。幸い、彼らは喜んで蒸溜所に戻ってきてくれたのです。感激しましたよ!我々は蒸溜所を復活させようという目的のもとに、家族のように力を合わせました。ブルックラディはもともととてもエレガントで美しいウイスキーだったので「絶対にこのシンデレラを舞踏会に連れて行くんだ」と誓い合いました。 蒸溜機材は、1881年にこの蒸溜所ができたときからあるものを、そのまま使っています。これは本当に素晴らしい!120年前に戻れるタイムマシンを手にしたようなものですからね。その当時の100%ピュアなウイスキーをつくれるのです。奇跡としか言いようがありません。 再開にあたってはまず修繕作業から始まり、やっと2001年10月に、蒸溜を始めることができました。蒸溜所は、確かに蘇ったのです。あのときの感動は忘れられませんね。その時から、なるべく「自然な」ウイスキーをつくろうと考えていました。全てをアイラ島で行いたいとも思いました。蒸溜も、熟成も、ボトリングも、全て。アイラで育て上げ、チルフィルターも着色料添加もせず、市場に出回るウイスキーの中で最高のものをつくろう…それが最初の目標でした。 当初、ボトリングをアイラ島内で行うのは無理だと人々は言いました。しかし、私はウイスキーをいったん本島に送るのではなく、アイラで行いたかった。アイラウイスキーなのですからね。それに、もう一つの理由があります。若者の雇用を促進したかったのです。 そしてボトリング設備を備え、ウイスキーの出来も上々で、順調に進んでいきました。そこで私は次の「アイラ産の大麦を使う」という目標に向かいました。島の農家へ、大麦を作ってくれと依頼して回ったのです。その当時島内で作られていた大麦はウイスキーには使われていませんでした。 最初に大麦の栽培を依頼した農家は2軒だけでしたが、それが非常にうまくいき、その様子を見ていた他の農家も私たちの考えに賛同してくれました。今では12軒の農家が私たちのために大麦を供給してくれています。 大麦の種類は農家によって様々です。風が強い畑ではしっかりと根を張るこの種類の麦、土壌が豊かな土地ではこの種類、と農家と相談しながら選んでいます。とてもいい関係を築けていますよ。こうして年間1000トンのアイラ産の大麦が、ブルックラディのウイスキーになっています。 それから、熟成も重要です。熟成は、他の蒸溜所ではほぼ本島で行っています。しかしそれではアイラとは異なる環境で、本当のアイラウイスキーとは言えないと私たちは考えました。アイラの空気を含み、島の大地の上で眠る…それがアイラウイスキーのあるべき姿です。ブルックラディではそれが実現できています。 これがブルックラディのこだわりで、今回新発売の3つの商品のうちの2つ…スコティッシュバーレイ、アイラバーレイはその方針のもとにつくられました。ブラックアートは閉鎖前の原酒を使った長期熟成品。このレシピは私しか知りません…気になるでしょう?飲んでみてください! また、かつてロッホインダール海岸に面したポートシャーロット村には、「ロッホインダール蒸溜所」がありました。この蒸溜所のピーテッドウイスキーへのオマージュとしてできたのが「ポートシャーロット」です。40ppmのピーテッドモルトを使い、50%でボトリングしています。ウイスキーがまだ若いから、度数も高いですね。もちろんチルフィルターもしていないので複雑な風味は本来のままです。バーボンカスクで熟成し、非常に美しいウイスキーに仕上がりました。ピート、潮、樽の香りが感じられ、ゆっくりと蒸溜したふくよかさがあります。上品で洗練された味わいです。 さらに、「ブルックラディではそこまでヘビーピーテッドなモルトはつくれない」と言われていました。そこで私たちは「じゃあ、やってやろうじゃないか」と思い、製麦業者に依頼して、極々弱火でピートをゆっくりと長く焚かせました。低い温度で焚くと、麦の芯まで煙を吸い込むのです。そして驚異的にヘビーなモルトができました。それがオクトモア…非常に力強い、アイラのパワーを十分に備えながらも、繊細で特別なウイスキーになりました。ウサイン・ボルトみたいなウイスキーですよ。単なる短距離走者ではありません。世界で一番速い男です。この世に何人の男がいるでしょう?その中で、世界一足が速い。これはそんなウイスキー、他にはない究極のアイラの魅力を持つモルトです。 私たちはこのように3つのスタイルをつくりました。コンピューターもなければ、科学者もマーケティングエキスパートもいません。古い機材を使って、コツコツと、純粋に良いウイスキーをつくり続けてきました。夢を実現させるために。 【後半へ続く】 関連記事はこちら ブルックラディ新商品発表会 “Laddie To Go!” Lost Distilleries―アイラ島 大麦の需要と供給【前半/全2回】

“Single Malt Odyssey” ブルックラディ ジム・マッキュワン氏インタビュー 【後半/全2回】

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ブルックラディはどのようにしてここまでたどり着き、これからどこへ向かうのか? マスターディスティラー ジム・マッキュワン氏独占インタビュー後半。 ←前半 最初、私たちはあまり資金に余裕がありませんでしたから、初年度の生産量は25万リットルだけでした。しかし、これをブレンディング用に売ることはせず、全て「ブルックラディ」として販売するために手元に置いていました。翌年はもう少し多く、40万リットル生産ができました。 もちろん銀行に行って資金を借りることもできましたが、そうすると銀行は樽をくれと言います。それは、まだ巣立つ前の子どもを手放すようなものです。そんなことはできません。だから苦しい資金繰りでしたが、なんとか続けているうちに、状況は徐々に良くなってきたのです。マーケティングやPR担当がいなくとも、このウイスキーを飲んだ方々が自ら広めてくれました。本当にありがたいことです。 先ほどお話ししたように、アイラで仕事を見つけるのは簡単ではありません。アイラに生まれながら、仕事がなく島を出なければならない…しかし今はそんな状況を変えつつあります。ボトリング工場、ブルックラディから日本へ直接ウイスキーが送れる流通システム。これによって、島に雇用が生まれ、私の故郷であるアイラに活気がみなぎる…こんな嬉しいことはありません。廃墟のようだったブルックラディが、今は生き生きと動いています。 麦についてもそうですね。島の農家は非常に協力的です。世界大戦後、アイラではウイスキー用大麦は作られていませんでしたから、大きな前進です。それに今、キルホーマン蒸溜所もアイラ産大麦を使ったウイスキーをつくっていますね。彼らも素晴らしい蒸溜所です、良く知っていますよ。同じコンセプトのウイスキーですが、どちらが優れているということではありません。アイラの島民はみな繋がっていますし、このように地元の人々とともに、世界で愛されるウイスキーをつくるのは本当に良いことだと思います。 現在、ブルックラディには65人の従業員がいます。通常の蒸溜所であれば数人で事足りるでしょう。私たちが自慢できることのひとつに、いったん社員になった人には、株式を渡すということがあります。これによって社員はみな株主となり、仕事に情熱を注いでくれます。そして仕事を離れる際には、少しお金が手元に残ります。みな平等…清掃員であっても株主です。これだけの雇用を生み出し、蒸溜所はひとつの村のように、団結して動いてきました。 そして昨年10月、レミーコアントロー社(以下RC社)が蒸溜所を買収しました。同社は世界的なブランドを数多く抱える大企業で、当初幽霊船のようだったこの蒸溜所が力をつけてこの会社の目に留まったということは驚きでした。 しかしRC社がどういう方針なのかという不安もありました。コンピューターを導入しハイテク蒸溜所にしようとか、ボトリングはフランスで行うなどと言い出したら? もしそんなことになれば、私はそこにはいられない。やっとここで夢を実現したのに、それを悪夢に変えるようなことにはしたくありませんでした。私はブルックラディの代表として話し合いの場に臨み、RC社の会長であるジャン・マリー氏と対面しました。すると聞きたいけれども聞けないだろうと思っていた言葉が、彼の口から出てきました。 「ジム、なぜ我々がブルックラディを買収したかというと、この『他にないユニークさ』だ。他のどこにもにない素晴らしい商品を、自然に基づいてつくっている。資金も十分になく、情熱だけでやってきた。それに感動したのだ。我々はそれをリスペクトしている。だから今のまま、もっと高いところへ登っていってほしい。製造のスタイルには絶対に介入しない、ただ生産量を上げる手伝いをしよう。財務的なバックアップをして、補修や増強など必要なことは行うので、このままのつくり方を続けてほしい」 にわかに信じがたい、夢のような話でした。 RC社の力を借りて、私たちはまた進んでいける。資金繰りに頭を悩ますことなく、最高品質のウイスキーづくりのことだけを考えていればいい。65人の従業員に対して、車を買ったり休暇を楽しんだり子供に教育を受けさせたりという、安定した生活を保障できるようになりました。私が今何を誇りに思っているかと聞かれたとしたら、毎朝蒸溜所の門をくぐってくる従業員たちがみな笑顔であること。それに尽きます。 ただ、悲しいことに、ウイスキー業界はたくさんのマーケティングや広告で情報が入り乱れています。「アイラの大麦を使っているなんて嘘だ」「アイラ島で全て熟成するなんて不可能だ」そんなことを言われました。しかし私たちは品質で証明してきました。だから今私たちはウイスキーアカデミーを開き、人々にウイスキーとは何かを教えています。簡単な道ではありませんが、自分たちのつくるウイスキーを信じていますから。バグパイプやハギスがどうのといったストーリーではなく、ウイスキーそのものが持っている本来の力を伝える―それが最も大切だと思っていますし、人々もそれに気づいてくれると信じています。 そして今世の中は、自分たちが何を口にしているかを非常に気にし始めています。私たちは自信を持って、産地を明らかにしたウイスキーを提供できる…世界中に、とは思っていませんよ、それには蒸溜所は小さすぎます。しかし、求める人には確かなものをお届けできるよう、挑戦を続けていきます。 これが私のウイスキー人生50年が詰まった、最高のストーリーです。 しかしこれで終わったわけではありません。シングルモルト・オデッセイ…旅路はまだ始まったばかりです。 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 終始穏やかに、時にはジョークやアクションを交えながら、ブルックラディへの思いを語ってくれたマッキュワン氏。ウイスキーへの情熱とアイラへの愛に溢れた言葉の一つ一つに、つい涙が浮かんでしまった。これほど心に響く語り方はそうそうできるものではない…それとも、まんまとジム・マジックの術中にはまってしまっただろうか? いや、それでもつくり手の想いとは、傍で見ている以上に強く、大きいものの筈だ。 ボトルを手に取った方々にも、そのメッセージが伝わることを願ってやまない。皆さんがブルックラディを愉しむときに、ふとこのストーリーを思い出していただければ幸いである。

Italian Legend ― 進化するサマローリ【前半/全2回】

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イタリアでユニークなボトルを輩出し続ける独立系ボトラーズ、サマローリ。先月創業45年を迎え、記念イベントを開催した。同社のボトリング方針に迫る。 9月中旬、アメリカからアジアを回る長いツアーの間に来日したサマローリ社 セールスマネージャー フランチェスコ・サヴェリオ氏と、マスターブレンダー アントニオ・ブレーヴェ氏にお話を伺った。 ――本日はお忙しい中お時間いただきましてありがとうございます。 日本にもサマローリファンは大勢いらっしゃいますが、製品以外の情報には詳しく触れることはなかなかありませんので、まず貴社の歴史についてお聞かせください。 フランチェスコ氏 サマローリ社は1968年、シルヴァーノ・サマローリ氏が創業しました。同じように古くからあるボトラーズではゴードン&マクファイルやケイデンヘッドが知られていますが、スコットランド以外の国では最古のボトラーズです。当時イタリア人がウイスキーのビジネスを始めるというのは少し変わっていると思われたようですね。しかしサマローリ氏はスピリッツが熟成して良いウイスキーになる、その過程を待つことを厭わない性格でしたし、その頃シングルモルトはまだ世界的にはそれほど出回っていませんでしたから、徐々にユニークなボトラーとして認知されてきました。 サマローリ氏は創業以来全て一人でやっていましたが、2001年頃から販売等の業務を他のスタッフに任せて製品開発に専念し始め、2005年には後継者を育てることを思い立ちました。アントニオと彼の父はサマローリ氏と親交が厚くビジネスでも良好な関係を築いていたので、アントニオはサマローリの一員として製造に携わることになりました。そして私はマーケティングやセールスを担当しています。社員4人の小さな会社ですが、うまく機能していると思っていますよ。 ――4人ですか! ここまで有名なボトラーズとしては本当に少人数ですね。年間どのくらいのボトルをリリースされているのでしょう? フランチェスコ氏 年間のリリースはだいたいウイスキーが15,000本、ラムも同量程度です。 ――樽はどこに貯蔵しているのですか? フランチェスコ氏 スコットランドのあちこちですね。蒸溜所から出せない樽はその蒸溜所の貯蔵庫で、他に自社の貯蔵庫で熟成しているものもありますし。現在は200~300ほどの樽を保有しています。ラムもスコットランドで熟成していますよ。 ――ラムも!? それはなぜでしょう? フランチェスコ氏 スコットランドは熟成に適した環境だと思っていますので。「カリブ海のエリアで6年熟成したものはスコットランドで20年熟成したものに相当する」と言われるほど暖かい土地のほうが熟成は早いですし、時間をかければかけるほどコストもかかりますから、早く熟成したほうが都合はいい(笑)。それでも原酒の品質が一番ですからね。 カリブで熟成したものとスコットランドで熟成したものは、見た目には同じですが味や香りは全く違います。カリブのものは少し苦味や塩気があり、シャープです。スコットランドのものはスムースでシルキー、ふっくらとしたボディが感じられます。これは好みの問題で、どちらが優れているというものではありません。ただ、私たちはこのスタイルをとっているというだけです。 ――それが「サマローリのラム」ということですね。ではボトリングもスコットランドで行うのですか? フランチェスコ氏 そうですね、ラベリングも全てです。デザインはこちらで行ったものを、現地で貼っています。洋服と同じですね…スコットランド製の生地を使って、イタリアでデザインして縫製すると最高の洋服ができるでしょう?原酒は100%スコティッシュですが、それ以外にはイタリア風のアレンジをしています。 ――なるほど!それは面白い例えですね。 ボトラーズの重要なポイントとして「ボトリング時期の見極め」があると思いますが、どのような基準で選ぶのでしょう。シングルカスクでもブレンドでも、それぞれ非常に難しいと思いますが。 フランチェスコ氏 その質問はアントニオの方が適任かな?彼はプロダクション側の人間ですから。 アントニオ氏 そうですね、まず私が教えられたことはそれぞれの原酒の「寿命」を知り、いつその原酒が最高の時期を迎えるかを見極めることです。これはサマローリ氏の長い経験から知り得たもので、私はそれを学んでいる最中です。またブレンディングには若い原酒の持つパワーも必要ですから、熟成年数の短い樽でも今がベストと思うものを選び出すこと、あるいは10年後20年後にどうなるかを予測してもっと熟成させるという選択をすることも重要です。 フランチェスコ氏 サマローリ氏はよく「ウイスキーは天気みたいなものだ」と言います。予報通りにはなりませんし、非常に変わりやすい。ある人は晴れだと思っても、ある人は曇りだと思う…そのなかで、自分の経験を生かしてベストの時を見極める。感覚を研ぎ澄ませることがとても大事ですね。 【後半に続く】
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